「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

「物語」の力をさらに問う―多様性を創造力にするために―

今日の材料:多様性、創造力、物語、知恵を集める

日本は単一民族国家と言われますが、時代の変化と共に多様性はますます増しています。まだまだ多数派が生きやすいものの、「多様性が創造力を生む」といった潜在的可能性も、あちこちで叫ばれるようになりました。

でも実際には、さまざまな志向や経験を持つ人たちの知恵を集めて一つのものを創り上げるということは、言うほど簡単なことではありません。

例えばいろいろな住民がいる地域コミュニティ、必ずしも目的意識が共有されていないグループや組織などでそれを実現するのは、本当に難しいことです。

興味や志向、利害などが一致しなければ、人はなかなか同じ方向を見ることは出来ないからです。結果として多様性は、建設的な対話や実践の阻害要因となってしまいます。

では、どうしたら人は同じ方向を向くことが出来るのでしょうか。

以前【理屈よりも深い納得を生む物語の力】という記事で、「物語」というのは、実は合理的な説明よりずっと物事への納得を生み出すものだと書きました。

この記事は、自分史上最高のブックマークを頂きました。物語の力に共感してくださる方は多いのかもしれない、と自分の中に納得がありました。

多くの人の心を動かす物語、それは多様性が増す現代社会で、創造的な力を発揮するものになるのでは、と思います。

 

 

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物語が生み出す納得には、感情や情緒によって人を動かす力があります。

一般的には、人を説得するためには論理性が必要だと言われます。私自身、大学院で文章を書くようになってから、いかに論理的に組み立てるか、ということをたくさん考えるようになりました。(実際にそう教えられますし。)

でも論理的な文章でも相手に伝わらない、ということが多々あることに気付くようになりました。私の力不足もあるのですが、読み手に何かを伝えようと思うとき、論理性以外にも考えるべきところがあると思うようになったのです。

論理性は、ある意味では客観的な説明と言い換えることが出来るかもしれません。でも【創造性は意外性から始まる―異なる視点を受け入れてみよう】という記事でも書いたように、人というのはどう頑張っても、自分自身の視点から逃れて物事を見ることは出来ません。

純粋に「客観的」であるということは、本来あり得ないのです。興味も知識も異なる人に何かを伝えたいと思ったとき、論理性というのは数多くある基準の一つに過ぎません。(私は研究者には向きませんね・笑)

そんな私がたくさんの論文を読んだ中で心に残ったのは、分析や検証方法の正確性とか発見事実の希少性を訴えるものより、研究の目的や見出されたことに対する執筆者の想いが伝わってくるようなものでした。

そしてその想いは、筋書きを持つ物語として自然に沁み込んできたのです。想像力のない私のような人間でもやはり、ストーリーの要素を持つ文章にひかれていきました。

多様なアイディアから一つのものを創り上げようとするとき、 初めから誰もが納得する答えを見つけ出すことはとても難しいことです。

でもその前に、人の心を動かすような物語づくりのプロセスを共有することで、そこに共感を生み出すきっかけになるかもしれません。

例えばあるコミュニティやグループ、組織の過去から現在までの歴史とか、参加者が共有する出来事をみんなでストーリー化してみるところから始めてみてはいかがでしょう。

そのストーリーが、もともとの目的に向かって取り組む良いきっかけになるかもしれません。あるいはそのストーリーそのものが、目的につながる可能性もがあると思います。

ストーリーの要素は様々です。出会いや別れ、笑いや怒り、ハッピーエンドや意外な展開―物語をどう面白くできるかを考えることは、結論をださなければならない話合いよりずっと心のハードルを下げるものだと思うのです。

もちろん、期限がある仕事ではそういう訳にはいきません。「そもそも論・再考」と言う記事でも書きましたが、時と場合を見極めることは絶対に必要です。

でも今のように複雑な社会の中で意味を持つアイディアは、単一的な物の見方からは絶対に出て来ないでしょう。多くの人の知恵を集めるということに、私たちは今まで以上に注力する必要があると思うのです。

その時、物語はきっと想像以上にその力を発揮するに違いありません。

 

 

※創造性につながる人間関係の在り方や教育に関して以下のような記事も書いています。

kiki-sh.hatenablog.com

 

 

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多くの人が変わるには、多様なきっかけが必要だ

今日の材料:気付き、きっかけ、自分を変える、多様性

みなさんが、このブログをご訪問されたきっかけは何でしょうか。

「働く」と「生きる」を「楽しむ」ということがテーマのこのブログですが、問題を解決する知識の伝達が目的ではなく、自分と読んでくださる方の小さな変化のきっかけになればと思って書いています。

当然、こうした変化は一つのブログを書くだけで起こるようなものではないですから、私自身もいろいろなブログや記事を訪問しています。

ネット上には生きる背景が異なる人たちが、さまざまな想いや情報を発信しています。そこで得られる気付きがあまりにも多く、時間が経つのも忘れてしまうほどです。

この「気付き」こそが、人が変わる最初のきっかけになるものだと私は思っています。変わることーそれをこれまでとは違う考え方に納得することと考えるなら、それに先行してまずこの「気付き」が必要です。

私は前回『理屈より深い納得を生み出す「物語」の力 』という記事で、物語は理屈より深い納得を生み出すということを書きました。まさに人生は自分探しの物語―どうやって気付き、何に納得をしたのかということに、全ての人が当てはまる合理的な説明はありません。

同じ経験をしてもみんなが同じように感じるわけではないし、同じ人が同じ経験をしても、それが人生のどのステージだったかで全く違うものになる―結局、何が自分を変えるきっかけになるのかは、それぞれの人生のストーリーの中でしか説明できないのです。

そう考えると、人の考えや行動を変えることを目的とする場(例えば自己啓発セミナーや社員研修など)で、全ての人が効果を得るということは非常に難しいものです。全ての人に特定の知識や情報を与えることは出来ても、全ての人にとっての「気付き」につながるきっかけを与えるのは、不可能に近いからです。

そしてそれは、教育全般に言えることです。

もちろん、世の中には「カリスマ講師」と呼ばれるような、素晴らしい講師がたくさんいるのは承知しています。でも、そういう講師に教えられるだけで勉強ができるようになるわけではありません。その理由もやはり、このきっかけの多様性が根底にあるからではないでしょうか。

特定の知識や情報、もしくはカリスマ講師だけじゃない。多くの人が変わるためには、それだけ多様なきっかけが必要なのです。

 

 

 

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私が知っているある会社の社長は、かつて指示待ちで自分からは動けない社員ばかりの会社を変えたいと思い、様々な知識やノウハウを集めて実践しました。

でもどれもうまく行かずに自分と会社に向き合ったとき、自分は目の前の現実ではなく「一般的に言われるような良い会社」を思い描いていただけだと気付きました。

それからその社長は既存の方法を全てやめ、対話をするようになりました。まずは社外の他の経営者の人たちとの対話を通して、経営者としての自分の在り方に気付き、そして社内の対話で、自分とは見方の異なる社員の在り方に気付いたのです。

その後、その社長は社員たちが変わるためのきっかけづくりを始めました。

ある時はオフサイトな対話の場づくり、ある時は業務とは異なるプロジェクトチームづくり。その行動の背景にある自分の気持ちをブログや朝礼で常に発信するだけでなく、社員にも会社や自分のことを語る「自分語り」の場を作り、それを発信することを促しました。

でも、そこに決まりきった方法はないのです。常にその場その場で巻き込む社員と向き合い、彼ら彼女らが変わるきっかけとなるように考え抜いて、いろいろな方法を試みたのです。

そうしているうちに、一人、また一人と自分や会社に対する考え方を変える社員が出てきました。5年、10年と続けて行くと、今度はこうした社員が周りに「気付き」を与える側になっていきます。こうして多様なきっかけがアメーバ式に増えて行くうちに、この会社は自分で考えて動く社員がたくさん育つ会社となりました。

今、大きく変わった会社を見て、たくさんの人が社長に「どうやって会社を変えたのか」と聞いてきます。でも、その「どうやって」の答えに納得できる人は少ないのです。一人一人の社員が変わるきっかけは、それぞれに違うのですから。

そして業績とは全く関わらないことに十数年も力を入れてきた間、社長がやってきたことをむしろ愚かなことと思っていた人もいたのです。特定の知識やノウハウではなく、ただ目の前の現実に向き合って行動してきたことは、他の文脈で方法だけ真似できるものではありません

恐らくこの社長にとって最初の「気付き」は、誰が何と言おうと、どれだけ時間がかかろうと、何のお手本もない自分の方法で社員を変える努力をし続ける決意をするきっかけとなったのでしょう。

その長年の努力の継続が、多くの社員が変わる多様なきっかけを生み出したのです。

実はこの会社との出会いこそが私にとっての「気付き」であり、「働く」とは何か、そして「生きる」とは何かを問い直す大きなきっかけとなりました。

私は微力ですが、それでも自分の「気付き」を読んでもらうことで誰かの何かを変えるきっかけとなればと思い、このブログを書くようになりました。

もちろん、それは今これを読んでいるあなたのきっかけになるかもしれないし、ならないかもしれません。でも、世の中にはたくさんのブログや記事があります。多様な発信は、多様なきっかけを与えてくれるものだと思います。

改めて、誰もが自分の「気付き」を発信できるネットの世界、本当にすごいと感じます。

このシステムを作った人に花束を贈りたいです。 

 

本記事で記載したI社のことを、他の記事でも書いています。

 

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理屈より深い納得を生み出す「物語」の力

今日の材料:物語、納得、主観

前回の記事で、「ナラティヴ・セラピー」について触れました。

そこでの「ナラティヴ」とは「語り、物語」のことです。

私が書いたのは、自分について語ることをきっかけに、「当たり前で動かしがたい」と思っていた現実が実はある関係性の中での限定的なものでしかない、ということに気付くということ。

その経験を自ら語り直すことによって、何も変わっていないはずの環境が全く違うものになる、ということでした。

「実際にはそんな単純にいかない!」と言われちゃうかな、と思ったのですが、頂いたコメントを見ていると、こうした経験は意外と多いのかもしれない、と思い直しました。

この「物語」というのは、実は合理的な説明よりずっと物事への納得を生み出すものだ、という考え方があります。

「物語的現実」とか「物語的自己」とかそんな言葉で表現されるのですが、それは原因と結果という明確な因果関係ではなく、自分が経験することで初めて物語のように筋道が立てられるということです。

「主観的」と言ってしまえばそれまでですが、子供の頃から聞いてきたたくさんの物語が多くの人にしっくりくるように、実は情緒や感情の中にこそ深い納得があります。むしろ客観的で理路整然とした説明以上に、人の心に刻まれるものなのかもしれません。

 

 

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子供にもわかる物語の説得力―これを最近、自分でも思わぬところで経験しました。

私の子供は6歳のやんちゃ男児。当然、毎日のように悪いことをしては叱られる年頃です。

「ゴミはゴミ箱に捨てないと家がゴミだらけになるでしょ!」とか、「使ったものは元に戻して!」と理屈を言ったところで、「は~い」と気のない返事・・。

でもある時、持っていたおもちゃを容赦なく床に落とした息子に、おもちゃが言ったように「痛い!ひどい!僕たち友達じゃなかったの!?」と言ってみたら、思った以上に動揺した息子が「もうしないから・・」と半泣きに。

何度も使える手ではないとは思うのですが(笑)、「こうだからこう」という理屈よりもストレートに心に響くんだろうな、とこちらも納得してしまいました。

ちなみに「自分探し」がメインテーマのこのブログ。例えば就活で求められる自己PRのように、過去の出来事から自分が誇れることを見つけ出すことをテーマとした記事を、以前書きました。

自分探しーありきたりな出来事こそが宝ー」、「自分探し②―ネガティブな経験だって宝― 」といったものです。

こういう経験を紐解いていく時、この「物語」という視点が一つのヒントになるのかな、と思います。

例えば上の一つ目の記事では、あるキャリアカウンセラーの方が多くの新卒者を面接した中で記憶に残っているのは、「ホノルルマラソン」の話ではなく、「親友とケンカしてどうやって仲直りしたか」という話だった、ということを書きました。

自分が今でも鮮明に思い出せる、忘れられない出来事―それは、どうしてそこまで自分の心を動かしたのか。原因と結果のような客観的な条件ではなく、ただ自分の物語として語ってみることで、自分にとっても聞く人にとっても納得を生み出すストーリーが出来るかもしれません。          

 秋も深まる夜長に、昔の出来事をストーリーにしてみませんか。

  

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「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある

今日の材料:自分、他人、関係性、気付き、語り直し

ブログの投稿を積み重ねていく中で、最近は記事にいろいろなコメントを頂けるようになりました。何か新たな思考が生まれるような気がして、対話の楽しさをますます実感しております。

前回の記事でも「自分らしさ」や「自分探し」について、塾パパさんからこんなコメントを頂きました。

他人がいるから自分を認識できるのかもしれません。他人がいなければ自分を認識できないかもしれません。もし世界に自分ひとりしか人間がいなかったら自我は芽生えないのではと考えてしまいます。  

なるほど!確かに、自分を認識する上で他人という存在はなくてはならないものですよね。

実は前回も引用した「”私は誰か”は自分だけでは決められない」という記事の中で、私は「相手」のことを2つの視点から書きました。

一つは「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものということ。

もう一つは、「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているということです。

後者については、なんとなく想像できるのではないかと思います。他人は自分を写す鏡。「あなたって〇〇だよね」と言われることほど、自分自身を認識する上で強く印象に残ることは、なかなかありません。

では、前者はどうでしょう。前回はブログにプロフィールをどう書くか、という話をしたのですが、今日はもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

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「自分とは何者か」を考える上で関係性に焦点を当てるというのは、伝統的な自己分析の方法、いわゆる「精神分析」とは一線を画する考え方です。

 精神分析療法は、良く知られているようにいわゆる無意識の抑圧を解放することによって、問題を解決しようとします。ざっくり言うならば、さまざまな環境要因によって封じ込められていた「本当の自分」を発見し、それを受け入れることによって、葛藤を解消しようとするものです。

それに対して、最近ではナラティブ・セラピーという療法をよく耳にします。【※『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ 』野口裕二著(医学書院)などを参考にしています。】そこでは問題を自分の中にあるのではなく、関係性によって築かれたものとして一度外在化します。さらにそれを「語り直す」ことによって、問題そのものへの認識を変えるというものです

抽象的なので具体例を挙げてみましょう。

 

新入社員のA氏は、職場で高圧的な物言いをする上司の下で働いているうちに、「我慢するのが会社員」という認識を持つようになった。悶々と毎日を過ごしていたある日、上司とは別の管理職B氏から会社に対する本音を言ってほしいと言われた。そこでA氏が差しさわりのないことしか言わずにいると、B氏は「そうじゃない」と言い、B氏自身が自分の不満を洗いざらい話し始めた。驚きつつもそれなら、とA氏も自分自身の不満もさらけ出した。その経験がきっかけとなり、A氏は自身の「我慢するのが会社員」という感覚を変化させ、やがて上司にも言いたいことを言えるようになった。

 

実はこれ、実際に聞いた話を少しだけアレンジしたものです。A氏の「我慢するのが会社員」という自己認識は、上司との関係性の中で築かれたことは間違いありません。でも、それが当たり前の日常となってしまうと、いつの間にかそのことは動かしがたい現実となってしまうのです。

でもA氏はB氏との対話の中で、その現実を語ること(外在化すること)によって、それが上司との関係性の中で築かれた限定的なものでしかないと気付き、それとは違う「本音を話せる」関係性を見つけ出します。

A氏はこれをきっかけに「我慢するのが会社員」という自己認識を語り直します。上司の高圧的な態度という環境は全く変わっていないのですが、A氏にとって自分の行動を抑制していた問題が問題でなくなり、言いたいことはきちんと言うという新たな自分を築いたのです。

精神分析が「本当の自分」を発見し、それを解放するという自分ベースの方法であるのに対し、ナラティヴ・セラピーは関係性に焦点を当てた「気付きー語り直し」という対話ベースの方法です。

実際にはこんな単純に行かないよ!という声が聞こえてきそうです。でも人と人との関係性の力というのは思った以上に大きく、時に動かしがたい現実として自分を縛りつけてしまうということは、往々にしてよくあるように思えます。

自分とは一体何なのか、と感じた時、一度この「気付きー語り直し」という対話ベースの方法を試してみてはいかがでしょうか。

もし環境が変えられなかったとしても、自分の認識が変わることで思わぬ変化が起こるかもしれません。

 

 

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「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由

今日の材料:自分らしさ、自分探し、本当の自分、問い、気付き

このブログの中で「自分らしさ」や「自分探し」は重要なカテゴリーであり、中心となるテーマです。でもネット上でいろいろ見ていると、嫌われることも多々ある言葉です。

日々の生活の中で我慢し、押し込めている「本当の自分」を見つけよう、という考え方に違和感を感じる―「本当の自分」って何?そもそもそんなもの自分でわかるはずないし、わかる必要があるの?と感じられることがその理由の中心にあるようです。

ごもっともだと思います。

「本当の自分」というある種の決定論的な答えが「自分らしさ」であり、その答えを見つけることが「自分探し」ととらえるなら、私もおそらく馴染めないでしょう。

私は以前、「”私が誰か”は私だけでは決められない」という記事の中で、こんなことを書きました。

「自分探し」は、

自分の心の中を必死に覗こうとすることではなく、他の人との関わりの中で自分が何を感じ、どう行動してきたかを見つめ直すこと

そして

 

自分のストーリーは常に進行中 

ということも。

そこに、「本当の自分」というゆるぎない答えはないと思っています。

今ある関係性の中で自分自身を振り返ること―そこでの発見がこれからほんの少しでも生きやすくなるヒントとなるなら、そこにこそ大きな意義があると感じています。

 

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私が長く付き合っているある友達が、「自分がないのが自分らしい」と言っていたことがありました。

彼女は今、若い頃に思い描いていた姿とは違う人生を生きていると感じています。新たな家族と年を重ねて過ごしてきた中で、新たな関係性と価値観を受け入れているのです。

人によっては「本当に幸せなの?」と感じる人もいるかもしれない―でもいろいろ悩んだ過程を経て今の彼女は清々しく、それが自分らしいと言っています。

またネット記事で読んだある人は、一度自分や周りが「自分らしさ」を定義してしまったばかりに、そうでない自分を許せなくなってしまったと語っています。

そしてそのことに気付き、今の自分にとって大切なことは何かをもう一度考え直した時、初めてその「自分らしさ」に苦しめられていたことに気付いたそうです。

どちらも考え抜いた末に今の道を選んだ軌跡はやはり「自分探し」であったけど、そこに特定の道筋はなかったのではないでしょうか。

問いを続けることが「自分探し」であり、そこで見つかる小さな気付きの積み重ねが「自分らしさ」だと考えることで、これまでとは違う光が当たると私は思っています。

そう願い、私は自分自身への問いと気付きをこのブログを書いてきました。

もしご興味があれば、ぜひこのブログのカテゴリ―の「自分探し」や「自分らしさ」をのぞいていただければ幸いです。 

ただこういう言葉を嫌うという人は、それだけ自分に向き合ってきた人だと私は思うのです。

そういう人たちのストーリーと、そこでの「問い」や「気付き」の中にもまた、大切な発見がたくさんあると思います。

 

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人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ

今日の材料:人間関係、網の目、結び目、主体性

インターネットが普及し、不特定多数の人々が情報を受発信できるようになってから、人との関係性に対する私たちのとらえ方は大きく変化しました。

ネット(網の目)とはよく名付けたもので、無数の網が絡まり合い、複雑な構造を織りなしています。以前【「なるほど!」と思うことを大切に】という記事でも書きましたが、あるコメントがモラルを問われぬままに大勢の影響力を持つようなことが起こるようになったのも、ネット構造の力の一つなのかもしれません。

ただSNSに限らず、こうした集団心理は日本社会の根底に常にありました。

いじめがその典型的な事例かもしれません。近年では「教師いじめ」という衝撃的な事件もありましたが、学校だけでなく職場やコミュニティ、親同士の関係性など、集団があるところには必ずある種のパワー関係があり、こうした不具合が起こりがちです。

このブログを訪れてくださった方も、何かしらネット上の人間関係に悩みを抱えてこられたのでしょうか。集団心理、パワー関係―こうした問題がネットの普及により複雑化し、家にいても安らげない状況を作り上げているような気がします。

でもその一方で、大きな喜びを与えてくれる出来事もまた、人との関係性の中で起こります。誰にでもこうした経験が一つ二つ、もしかしたらそれ以上に記憶にあるのではないかと思います。

私がSNS上の関係性を通してとても嬉しかった出来事の一つは、私のブログを他のブロガーさんが紹介してくださったことです。とても示唆に富む言及でした。

 

satsumaim0.hatenablog.com

 

「毎日ブログを書いていると、何かの巡り合わせで新しいブログとつながりを持つことができる」-

ほんの小さな、偶然のつながりです。実は私もこの方のブログを読んでいて、物事のとらえ方やブログ観など、共感するものがありました。

それは、広い網の目(ネット)の中での小さな結び目(ノット)なのかもしれません。

 

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このネットとノットという言葉が、SNSを含めた人間関係の複雑な問題に対応する上で、1つのヒントとなるような気がします。

この言葉は、教育学博士のユーリア・エンゲストローム氏の著書から拝借しました。

エンゲストローム氏は日々の活動から起こる学習の在り方について、新たな見解を示しています。既存の枠組み(チームや学校、組織など)を越え、ノットによって創発的に広がっていくことこそ、これまでにない新たな学びを引き起こすというものです。

興味がある方はぜひ、『ノットワークする活動理論: チームから結び目へ』(新曜社)をお読み頂ければと思いますが、とても難しい理論で私自身、きちんと理解できているわけではありません。

でも、このネットとノットという言葉自体が、私の中での引っかかりー結び目となりました。

SNSでたくさんの情報が溢れる中、私たちはどうしても人の目を引く情報に引き寄せられてしまいます。それ自体は悪い事ではありません。ただ、一度立ち止まってその情報に対する何が自分にとってのノットなのか、考えてみる必要があると思うのです。

そして勢いで同調したり反論したりするのではなく、まずは自分でそのノットをきつく締めたり緩めたりしながら、一体何が引っかかるのかを熟慮した上で、その考えを表明するべきではないでしょうか。

エンゲストローム氏は結び目によって広がる活動をネットワークならぬ「ノットワーキング」とし、ノットを中心とする主体的な活動と考えています。共感するにしても反対するにしても、しっかりと自分の軸を持つことが必要なのです。

これはSNSを含めた人間関係にも言えることです。もし今、純粋な興味や共通性を越えた関係性に縛りつけられているなら、あなたにとって何がノットなのかをもう一度よく考えてみてください。

そしてもしそれがただ網の目のしがらみに絡まっているだけならば、ノット以外のことにしがみつく必要はないのではありませんか。

「広く浅く」でも「狭く深く」でもない、この「ネットからノットへ」という人間関係の広げ方が、今私の中で一番しっくり来ています。

 

追記)他にも人間関係に関連する記事をいくつか書いています。

 

 

 

  

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創造性は意外性から始まる―異なる視点を受け入れてみよう―

今日の材料:悪魔の代弁者、意外性、創造性、判断留保

ブログを書いていてスターやブックマーク、励みになるコメントを頂き、継続のモチベーションを各段に上げてくださる皆さまには、いつも本当に感謝しております。

そして時々、「そこきますか!?」と思えるような視点からのコメントを頂くことがあり、驚きとともに考えを掘り下げる良い機会をもらっています。

書くことも読むことも対話だ」という記事を以前書きましたが、こういう意外性はやはりコメントのような直接のやり取りの中で起こるように思えます。

ところで、この意外性を意図的に生み出すことで創造性を広げるという手段があるのを、ご存じでしょうか。

「悪魔の代弁者」(devil's advocate)といわれるものです。

この言葉は、カトリック教で故人を聖人として認めるか否かの審議において、指名される役割からきています。「悪魔の代弁者」に指名された人はあえて故人を非難し、それでもなおその人物が聖人に値するという合意が得られてようやく、聖列に加えられるのです。

そこから転じ、議論や討論などで多数意見に対して反対や批判を言う人のことをこのように呼びます。「悪魔の代弁者」は同調圧力や予定調和を崩し、自由な発言と活発な意見交換を促そうとする人や役割ととらえられています。

 

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たまに「私はあまのじゃくなんですよ」という人に出会うと、私はいつもこの「悪魔の代弁者」を思い出します。でもこの方法、私が以前書いた「そもそも論」(☆参照)以上に、諸刃の剣になりやすいことは容易に想像出来ますよね。

批判や反論に出会うと私たちはまず、「判断」をしてしまいます。感情が先に善悪の判断をしてしまうと、その内容を受け入れる前に拒否反応を起こしてしまうのです。

でも人生を振り返ってみると、異なる意見が自分の考えを大きく変え、その視野を広げてくれたということは少なくありません。人というのはどう頑張っても、自分自身の視点から逃れて物事を見ることは出来ないものです。だからこそ、意識して異なる視点を知ることは、遅かれ早かれ自分の人生を豊かにしてくれるものだと思うのです。

では、感情的な判断をする前に出来ることはあるのでしょうか。

異文化圏などで生活するときに必要な工夫に、「判断留保」というのもがあります。これは先に書いたような善悪の「判断」を一度横に置いて、純粋に相手の言動の背景に興味を持ってみるということです。

私は以前、ある国のファーストフード店で買い物をしていたとき、明確な順番がわからない状況の中で店員が声を掛けてくれるのを待っていました。でもその店員はなかなか声を掛けてくれないどころか、迷惑顔をして私の顔を見ていたのです。

私はすごく嫌な気持ちになり、買うのを諦めて店を出ました。でも、そこでは自分から注文を言わなければならない、ということが後からわかりました。何も言わずにぼーっと突っ立っていた私は、店員にとってはむしろ迷惑な客だったのです。

もしその時「嫌な店員だ」という判断を留保したとしたら、私は別の対応を試み、違う結果になっていたかもしれません。

現実には、無意識に起こるこうした感情を抑えるのはなかなか難しいものです。でも異なる視点が必ずしも「悪」ではないという意識を根底に持ち、ほんの少しだけ判断を留保してみることで、今見ている景色は少しずつ変わってくるのではないでしょうか。

ちなみにこの「悪魔の代弁者」は、客観的に存在するだけでなく、自分で作り出すことも出来ると私は思っています。

例えば、私が頂いたコメントは決して批判や反論というものではなく、単純に私にとって意外な内容というだけでした。

ただ、意外性を自分の中で興味に変え、さらに膨らませていくことでも、自分の視点を広げることは出来るように思えます。

反論や批判に応えることはハードルが高いですが、日常の中で目にする意外性に目を向け、それを追求していくことから始めてみるのも良いかもしれません。

悪魔はいつも、あなたのそばで見つけられるのを待っています。

 

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