「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい

今日の材料:未来、行動の目標、不確実な状況、中村哲医師の活動、変化

ブログを始めて半年経ちましたのでふと振り返ってみました。(記事数を見ると「とほほ」ですはありますが)

老後「2000万円」問題に取り組む前に、まずは自分探しから】というタイトルで書いたのが最初の記事でした。当初は長い記事ではなくサラっと書いてたんだな、と改めて思い返しています。

金融庁の「老後は2000万円必要」という発表が大きく問題視されるのを見て、真っ先に記事に書いたようなことが思い浮かんだことを覚えています。誰が何と言おうと所詮は不確実な未来、にもかかわらずどうしてここまで私たちの心をこんなにもとらえるのだろう、と。

この問題が私たちに提示したことの一つは、見えない不安が良い意味でも悪い意味でも私たちを突き動かすパワーを持っていることだったように思えます。

だからこそ、最初のこの記事で一番言いたかったことは、

まだきちんと向き合えていない大切な問題についてしっかり考え、大切な人と建前でなく本音を話して、理解し合い、納得し合うことが、何より見えない未来への備えとなりませんか。

未来は単独で存在するのではなく、必ず今とつながっています。

ということでした。

未来は今とつながっている―まずそのことをしっかりと心に留めた上で、今自分がすべきことから始めてみよう、ということ。自分と読んでくれる人にとってそのきっかけの一つになればと思い、ブログに想いが綴ってきました。振り返れば、これが最初の記事でよかったのかもしれません。

でもこう書いていながら私自身、毎日に流されてどこへ向かっているのかわからなくなることは多々あります。こうして信念を持って文章を書いているつもりでも、やっぱりこの先に何があるのかわからない不安を持っています。

「老後2000万円」はその計算方法こそかなり大雑把でしたが、具体的な数字であったことも私たちの注目を集めた大きな原因であったように思えます。目標が具体的であれば、それに向かう行動だって決めやすいものです。

実際に、この問題が今すべき資産形成の方法を見直そうという議論を多少なりとも引き起こしました。(これがそもそもの目的だったのでしょうが)

「行動する」ということは、何かしら目標があるから出来ることです。でも不確実な未来に向かう行動の目標は、当然明確なものではありません。明確でない目標に向かって行動するのは、目的地の見えない森の中を歩いているような不安を呼び起こすように思えます。

 

 

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でも、どんなに不確実な状況でも行動を起こす人はいます。

私は今、先日アフガニスタンで銃撃され命を奪われてしまった中村哲医師のことを思い浮かべました。連日の報道で広く知られているように、中村医師はパキスタンアフガニスタン地域に医師として赴任しましたが、医療活動だけでは人々を救うことは出来ないと考え、灌漑活動にも携わり人道支援を長く続けてきました。

中村医師は、自分が診察していた病院の待合室で子供が亡くなっていくのを何度も目の当たりにする中で、その背景にある食糧不足や栄養失調を実感したそうです。医者として患者を診ること以前にすべきことがあると感じ、現住民が自分たちでもできる方法を考えて灌漑や農業を実践できるように支援してきたそうです。

常に目の前にある問題に取り組みながらも、将来的に人々が自分たちの足で立てるようにする―その在り方は、当初思い描いていた医師として人を救う活動する中でさまざまな偶然と出逢い、今すべきこととして導き出されたことだったのでしょう。

中村医師が紛争の絶えない地域で、ご家族からも「覚悟はしていたが起こらないで欲しかった」と言われるほどの過酷な活動を続けてきたことは、とても真似できることではありません。ただ、だからこそ私たちが身近なこととしてでも学べることがあるとするなら、どんなに不確実な状況であったとしても行動をすることには必ず意味がある、ということではないでしょうか。

そしてその意味は、一つひとつの出逢いに真摯に向き合うこと、対峙している人や状況に対して考え抜くことで、少しずつ見えてくることだと思うのです。誰でも、どんな状況でも目標を作ることは出来るはず。まずはそれに向かって行動しながら、本当に目指していることは何なのかを考え続けることが必要なんだと思います。

中村医師は死と向き合うような場に赴きつつも、自宅に戻ると家族とゆっくり過ごす普通の人だったという記事も読みました。ご本人は、周りが思っているほどの偉業を成し遂げたという感覚はなかったのかもしれません。実際に日々の活動は本当に地道なものであり、常に注目を浴びていたわけではなかったと思います。

いろいろな記事を読むたびに、私は本当に人を動かすのは他者の評価ではなく自分の信念だ、と強く感じさせられます。

未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい。でもそれをやることには必ず意味がある

中村医師のご冥福をお祈りするとともに、そのことを心に刻んで日々過ごしていきたいと思います。

 

 

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書くことへの信念は、もう揺るがない

今日の材料:フィードバック、フィードフォワード、研究の価値、ブログの価値

前回の記事【「物語」の力をさらに問う―多様性を創造力にするために― 】には、たくさんのコメント&ブクマコメントを頂き、本当にありがとうございました。

私はブログ執筆を通してもっともっと書く力をつけたいと強く思っているので、頂いたコメント一つひとつが本当に宝です。

書く力は書くことでしか身に付きません。みなさんから頂くコメントは私が書いたことがどのように伝わっているのかを教えてくれる、この上なく貴重なフィードバックなのです。

そういえば、最近は「フィードバック」ではなく「フィードフォワード」という言葉が使われているようですが、ご存じですか。

ざっくり説明すると、(あえて対比した場合)「フィードバック」は過去志向で私見の色彩が強く、問題や欠点の指摘が中心。それに対して「フィードフォワード」は未来志向で広い視野からの意見であり、解決への展望が臨めるものだそうです。

 

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back (後方)から forward (前方)へ―言葉のあやからこれまでの伝え方を見直そう、という試みは理解できるのですが、私個人としてはどうしてもこういうノウハウ的な説明には疑問を感じてしまいます。

上の記事では上司と部下の関係性を基準に描かれているのですが、上司は「前向きなアドバイス」のつもりでも、部下からしたら「後ろ向きな指摘」と受け止められることが多々ありますから。

結局、関係性によって同じ内容でも前向きにも後ろ向きにもなりうるのです。いくら内容的に「フィードフォワード」を意識しても、伝わらなければ意味はありません。上司は伝える内容だけでなく、部下との関係性、そこでの自分自身の在り方も問い直す必要があるのではないでしょうか。

そして伝えられる部下側もまた、ただ受け身ではいけないと思うのです。

まずはどんな指摘も「フィードフォワード」として受け取る努力が必要だと思います。問題や欠点の指摘であっても、自分の受け止め方次第で未来志向にすることは可能だからです。自分がやるべきことに信念を持っていれば、意識的にこうした受け止め方をすることは出来るはずです。

自分自身と向き合い信念を持った上で、パワー関係の中でどうしても信念を貫くことができないのなら、そのときは別の関係性を探すことも出来るでしょう。いずれにしても譲れないものを持っているかどうかで、物事の受け止め方は変わってきます

私はこれまでの人生の中で迷ってばかりいたので、上司だけでなく他人の評価にずいぶん振り回されました。でも今は、書くことに信念を持っています。だからどんな指摘も「フィードフォワード」に出来る自信があります。

もちろん、みなさんから頂くコメントは努力を要せずとも勇気づけられるものばかりで、誰から見ても確実に「フィードフォワード」です。そして鋭い「気付き」を与えてくださるので、一つひとつに大きくうなずいてしまうのです。

 

 

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前回の記事で、私は以下のようなことを書きました。

 

私がたくさんの論文を読んだ中で心に残ったのは、分析や検証方法の正確性とか発見事実の希少性を訴えるものより、研究の目的や見出されたことに対する執筆者の想いが伝わってくるようなものでした。

頂いたコメントは、この内容に共感してくださったものがとても多かったような気がします。例えばいつもコメントをくださる、さえわたるさんはこう書いてくださいました。

難しい研究論文であっても、書いたのは人間。
ドライな実証性が求められる反面、やはりそこにはヒトのココロが宿っているものだと感じています。
真実を追究する情熱とでもいいますか

 

「真実を追求する情熱」―私はこの言葉でさらに自分の「気付き」を深めました。

私が研究をしていて感じた違和感はまさに、この「情熱」が置き去りにされていたことだったのです。研究方法の適切さや研究の貢献ばかりを強調しなければならないことに、どうしても馴染めませんでした。社会科学を学ぶことは、人が生きやすくなるきっかけや、そのヒントを見つけるものだ―私が持っていたこの情熱は、大学院で求められる研究者としての成功と明らかにかけ離れていました。

ところが、この「研究」とは何かということさえ、関係性の中で揺れ動くものだということに後から気付きました。

ips細胞研究で有名な京都大学山中伸弥教授のエピソードです。山中教授は留学中に指導を受けた先生から「君のビジョンはなんだ」と聞かれた時、「妻子を連れてアメリカに来ているのは、いい研究をして、論文をいっぱい書いて、研究費をいっぱい貰って偉くなりたいからです。教授になりたいんです」と答えたそうです。

それに対してその先生は「それはビジョンじゃない。ビジョンを達成するための手段だろう」と言いました。

それを聞いて山中教授は、「いまの医学では治せない患者を治せるとしたら、それは研究。だから研究者になろうと思った」ということを思い出したそうです。

山中伸弥が研究者として成功した秘訣——「VW」のモットー|人間力・仕事力を高めるWEB chichi|致知出版社より

研究者としてのビジョンは、やっぱり「真実を追求しようとする情熱」の中にあるのです。

ある関係性の中で限定的な「研究」の在り方に、私自身も惑わされていました。山中教授とは比べ物にもならないくらい小さなものかもしれないけど、きっと私にも出来る「研究」があるはず今はそう思っています

でもこうして考えてみると、ブログの価値と研究の価値は似ているかもしれません。

自分の気付きを追求すること、そしてそれを伝えることが、誰かの気付きにつながるんですから。

ここでブログを書き続けながら、来年は論文も書くと私は心に決めています。 

 

 

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「物語」の力をさらに問う―多様性を創造力にするために―

今日の材料:多様性、創造力、物語、知恵を集める

日本は単一民族国家と言われますが、時代の変化と共に多様性はますます増しています。まだまだ多数派が生きやすいものの、「多様性が創造力を生む」といった潜在的可能性も、あちこちで叫ばれるようになりました。

でも実際には、さまざまな志向や経験を持つ人たちの知恵を集めて一つのものを創り上げるということは、言うほど簡単なことではありません。

例えばいろいろな住民がいる地域コミュニティ、必ずしも目的意識が共有されていないグループや組織などでそれを実現するのは、本当に難しいことです。

興味や志向、利害などが一致しなければ、人はなかなか同じ方向を見ることは出来ないからです。結果として多様性は、建設的な対話や実践の阻害要因となってしまいます。

では、どうしたら人は同じ方向を向くことが出来るのでしょうか。

以前【理屈よりも深い納得を生む物語の力】という記事で、「物語」というのは、実は合理的な説明よりずっと物事への納得を生み出すものだと書きました。

この記事は、自分史上最高のブックマークを頂きました。物語の力に共感してくださる方は多いのかもしれない、と自分の中に納得がありました。

多くの人の心を動かす物語、それは多様性が増す現代社会で、創造的な力を発揮するものになるのでは、と思います。

 

 

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物語が生み出す納得には、感情や情緒によって人を動かす力があります。

一般的には、人を説得するためには論理性が必要だと言われます。私自身、大学院で文章を書くようになってから、いかに論理的に組み立てるか、ということをたくさん考えるようになりました。(実際にそう教えられますし。)

でも論理的な文章でも相手に伝わらない、ということが多々あることに気付くようになりました。私の力不足もあるのですが、読み手に何かを伝えようと思うとき、論理性以外にも考えるべきところがあると思うようになったのです。

論理性は、ある意味では客観的な説明と言い換えることが出来るかもしれません。でも【創造性は意外性から始まる―異なる視点を受け入れてみよう】という記事でも書いたように、人というのはどう頑張っても、自分自身の視点から逃れて物事を見ることは出来ません。

純粋に「客観的」であるということは、本来あり得ないのです。興味も知識も異なる人に何かを伝えたいと思ったとき、論理性というのは数多くある基準の一つに過ぎません。(私は研究者には向きませんね・笑)

そんな私がたくさんの論文を読んだ中で心に残ったのは、分析や検証方法の正確性とか発見事実の希少性を訴えるものより、研究の目的や見出されたことに対する執筆者の想いが伝わってくるようなものでした。

そしてその想いは、筋書きを持つ物語として自然に沁み込んできたのです。想像力のない私のような人間でもやはり、ストーリーの要素を持つ文章にひかれていきました。

多様なアイディアから一つのものを創り上げようとするとき、 初めから誰もが納得する答えを見つけ出すことはとても難しいことです。

でもその前に、人の心を動かすような物語づくりのプロセスを共有することで、そこに共感を生み出すきっかけになるかもしれません。

例えばあるコミュニティやグループ、組織の過去から現在までの歴史とか、参加者が共有する出来事をみんなでストーリー化してみるところから始めてみてはいかがでしょう。

そのストーリーが、もともとの目的に向かって取り組む良いきっかけになるかもしれません。あるいはそのストーリーそのものが、目的につながる可能性もがあると思います。

ストーリーの要素は様々です。出会いや別れ、笑いや怒り、ハッピーエンドや意外な展開―物語をどう面白くできるかを考えることは、結論をださなければならない話合いよりずっと心のハードルを下げるものだと思うのです。

もちろん、期限がある仕事ではそういう訳にはいきません。「そもそも論・再考」と言う記事でも書きましたが、時と場合を見極めることは絶対に必要です。

でも今のように複雑な社会の中で意味を持つアイディアは、単一的な物の見方からは絶対に出て来ないでしょう。多くの人の知恵を集めるということに、私たちは今まで以上に注力する必要があると思うのです。

その時、物語はきっと想像以上にその力を発揮するに違いありません。

 

 

※創造性につながる人間関係の在り方や教育に関して以下のような記事も書いています。

kiki-sh.hatenablog.com

 

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

 

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多くの人が変わるには、多様なきっかけが必要だ

今日の材料:気付き、きっかけ、自分を変える、多様性

みなさんが、このブログをご訪問されたきっかけは何でしょうか。

「働く」と「生きる」を「楽しむ」ということがテーマのこのブログですが、問題を解決する知識の伝達が目的ではなく、自分と読んでくださる方の小さな変化のきっかけになればと思って書いています。

当然、こうした変化は一つのブログを書くだけで起こるようなものではないですから、私自身もいろいろなブログや記事を訪問しています。

ネット上には生きる背景が異なる人たちが、さまざまな想いや情報を発信しています。そこで得られる気付きがあまりにも多く、時間が経つのも忘れてしまうほどです。

この「気付き」こそが、人が変わる最初のきっかけになるものだと私は思っています。変わることーそれをこれまでとは違う考え方に納得することと考えるなら、それに先行してまずこの「気付き」が必要です。

私は前回『理屈より深い納得を生み出す「物語」の力 』という記事で、物語は理屈より深い納得を生み出すということを書きました。まさに人生は自分探しの物語―どうやって気付き、何に納得をしたのかということに、全ての人が当てはまる合理的な説明はありません。

同じ経験をしてもみんなが同じように感じるわけではないし、同じ人が同じ経験をしても、それが人生のどのステージだったかで全く違うものになる―結局、何が自分を変えるきっかけになるのかは、それぞれの人生のストーリーの中でしか説明できないのです。

そう考えると、人の考えや行動を変えることを目的とする場(例えば自己啓発セミナーや社員研修など)で、全ての人が効果を得るということは非常に難しいものです。全ての人に特定の知識や情報を与えることは出来ても、全ての人にとっての「気付き」につながるきっかけを与えるのは、不可能に近いからです。

そしてそれは、教育全般に言えることです。

もちろん、世の中には「カリスマ講師」と呼ばれるような、素晴らしい講師がたくさんいるのは承知しています。でも、そういう講師に教えられるだけで勉強ができるようになるわけではありません。その理由もやはり、このきっかけの多様性が根底にあるからではないでしょうか。

特定の知識や情報、もしくはカリスマ講師だけじゃない。多くの人が変わるためには、それだけ多様なきっかけが必要なのです。

 

 

 

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私が知っているある会社の社長は、かつて指示待ちで自分からは動けない社員ばかりの会社を変えたいと思い、様々な知識やノウハウを集めて実践しました。

でもどれもうまく行かずに自分と会社に向き合ったとき、自分は目の前の現実ではなく「一般的に言われるような良い会社」を思い描いていただけだと気付きました。

それからその社長は既存の方法を全てやめ、対話をするようになりました。まずは社外の他の経営者の人たちとの対話を通して、経営者としての自分の在り方に気付き、そして社内の対話で、自分とは見方の異なる社員の在り方に気付いたのです。

その後、その社長は社員たちが変わるためのきっかけづくりを始めました。

ある時はオフサイトな対話の場づくり、ある時は業務とは異なるプロジェクトチームづくり。その行動の背景にある自分の気持ちをブログや朝礼で常に発信するだけでなく、社員にも会社や自分のことを語る「自分語り」の場を作り、それを発信することを促しました。

でも、そこに決まりきった方法はないのです。常にその場その場で巻き込む社員と向き合い、彼ら彼女らが変わるきっかけとなるように考え抜いて、いろいろな方法を試みたのです。

そうしているうちに、一人、また一人と自分や会社に対する考え方を変える社員が出てきました。5年、10年と続けて行くと、今度はこうした社員が周りに「気付き」を与える側になっていきます。こうして多様なきっかけがアメーバ式に増えて行くうちに、この会社は自分で考えて動く社員がたくさん育つ会社となりました。

今、大きく変わった会社を見て、たくさんの人が社長に「どうやって会社を変えたのか」と聞いてきます。でも、その「どうやって」の答えに納得できる人は少ないのです。一人一人の社員が変わるきっかけは、それぞれに違うのですから。

そして業績とは全く関わらないことに十数年も力を入れてきた間、社長がやってきたことをむしろ愚かなことと思っていた人もいたのです。特定の知識やノウハウではなく、ただ目の前の現実に向き合って行動してきたことは、他の文脈で方法だけ真似できるものではありません

恐らくこの社長にとって最初の「気付き」は、誰が何と言おうと、どれだけ時間がかかろうと、何のお手本もない自分の方法で社員を変える努力をし続ける決意をするきっかけとなったのでしょう。

その長年の努力の継続が、多くの社員が変わる多様なきっかけを生み出したのです。

実はこの会社との出会いこそが私にとっての「気付き」であり、「働く」とは何か、そして「生きる」とは何かを問い直す大きなきっかけとなりました。

私は微力ですが、それでも自分の「気付き」を読んでもらうことで誰かの何かを変えるきっかけとなればと思い、このブログを書くようになりました。

もちろん、それは今これを読んでいるあなたのきっかけになるかもしれないし、ならないかもしれません。でも、世の中にはたくさんのブログや記事があります。多様な発信は、多様なきっかけを与えてくれるものだと思います。

改めて、誰もが自分の「気付き」を発信できるネットの世界、本当にすごいと感じます。

このシステムを作った人に花束を贈りたいです。 

 

本記事で記載したI社のことを、他の記事でも書いています。

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

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理屈より深い納得を生み出す「物語」の力

今日の材料:物語、納得、主観

前回の記事で、「ナラティヴ・セラピー」について触れました。

そこでの「ナラティヴ」とは「語り、物語」のことです。

私が書いたのは、自分について語ることをきっかけに、「当たり前で動かしがたい」と思っていた現実が実はある関係性の中での限定的なものでしかない、ということに気付くということ。

その経験を自ら語り直すことによって、何も変わっていないはずの環境が全く違うものになる、ということでした。

「実際にはそんな単純にいかない!」と言われちゃうかな、と思ったのですが、頂いたコメントを見ていると、こうした経験は意外と多いのかもしれない、と思い直しました。

この「物語」というのは、実は合理的な説明よりずっと物事への納得を生み出すものだ、という考え方があります。

「物語的現実」とか「物語的自己」とかそんな言葉で表現されるのですが、それは原因と結果という明確な因果関係ではなく、自分が経験することで初めて物語のように筋道が立てられるということです。

「主観的」と言ってしまえばそれまでですが、子供の頃から聞いてきたたくさんの物語が多くの人にしっくりくるように、実は情緒や感情の中にこそ深い納得があります。むしろ客観的で理路整然とした説明以上に、人の心に刻まれるものなのかもしれません。

 

 

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子供にもわかる物語の説得力―これを最近、自分でも思わぬところで経験しました。

私の子供は6歳のやんちゃ男児。当然、毎日のように悪いことをしては叱られる年頃です。

「ゴミはゴミ箱に捨てないと家がゴミだらけになるでしょ!」とか、「使ったものは元に戻して!」と理屈を言ったところで、「は~い」と気のない返事・・。

でもある時、持っていたおもちゃを容赦なく床に落とした息子に、おもちゃが言ったように「痛い!ひどい!僕たち友達じゃなかったの!?」と言ってみたら、思った以上に動揺した息子が「もうしないから・・」と半泣きに。

何度も使える手ではないとは思うのですが(笑)、「こうだからこう」という理屈よりもストレートに心に響くんだろうな、とこちらも納得してしまいました。

ちなみに「自分探し」がメインテーマのこのブログ。例えば就活で求められる自己PRのように、過去の出来事から自分が誇れることを見つけ出すことをテーマとした記事を、以前書きました。

自分探しーありきたりな出来事こそが宝ー」、「自分探し②―ネガティブな経験だって宝― 」といったものです。

こういう経験を紐解いていく時、この「物語」という視点が一つのヒントになるのかな、と思います。

例えば上の一つ目の記事では、あるキャリアカウンセラーの方が多くの新卒者を面接した中で記憶に残っているのは、「ホノルルマラソン」の話ではなく、「親友とケンカしてどうやって仲直りしたか」という話だった、ということを書きました。

自分が今でも鮮明に思い出せる、忘れられない出来事―それは、どうしてそこまで自分の心を動かしたのか。原因と結果のような客観的な条件ではなく、ただ自分の物語として語ってみることで、自分にとっても聞く人にとっても納得を生み出すストーリーが出来るかもしれません。          

 秋も深まる夜長に、昔の出来事をストーリーにしてみませんか。

  

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「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある

今日の材料:自分、他人、関係性、気付き、語り直し

ブログの投稿を積み重ねていく中で、最近は記事にいろいろなコメントを頂けるようになりました。何か新たな思考が生まれるような気がして、対話の楽しさをますます実感しております。

前回の記事でも「自分らしさ」や「自分探し」について、塾パパさんからこんなコメントを頂きました。

他人がいるから自分を認識できるのかもしれません。他人がいなければ自分を認識できないかもしれません。もし世界に自分ひとりしか人間がいなかったら自我は芽生えないのではと考えてしまいます。  

なるほど!確かに、自分を認識する上で他人という存在はなくてはならないものですよね。

実は前回も引用した「”私は誰か”は自分だけでは決められない」という記事の中で、私は「相手」のことを2つの視点から書きました。

一つは「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものということ。

もう一つは、「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているということです。

後者については、なんとなく想像できるのではないかと思います。他人は自分を写す鏡。「あなたって〇〇だよね」と言われることほど、自分自身を認識する上で強く印象に残ることは、なかなかありません。

では、前者はどうでしょう。前回はブログにプロフィールをどう書くか、という話をしたのですが、今日はもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

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「自分とは何者か」を考える上で関係性に焦点を当てるというのは、伝統的な自己分析の方法、いわゆる「精神分析」とは一線を画する考え方です。

 精神分析療法は、良く知られているようにいわゆる無意識の抑圧を解放することによって、問題を解決しようとします。ざっくり言うならば、さまざまな環境要因によって封じ込められていた「本当の自分」を発見し、それを受け入れることによって、葛藤を解消しようとするものです。

それに対して、最近ではナラティブ・セラピーという療法をよく耳にします。【※『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ 』野口裕二著(医学書院)などを参考にしています。】そこでは問題を自分の中にあるのではなく、関係性によって築かれたものとして一度外在化します。さらにそれを「語り直す」ことによって、問題そのものへの認識を変えるというものです

抽象的なので具体例を挙げてみましょう。

 

新入社員のA氏は、職場で高圧的な物言いをする上司の下で働いているうちに、「我慢するのが会社員」という認識を持つようになった。悶々と毎日を過ごしていたある日、上司とは別の管理職B氏から会社に対する本音を言ってほしいと言われた。そこでA氏が差しさわりのないことしか言わずにいると、B氏は「そうじゃない」と言い、B氏自身が自分の不満を洗いざらい話し始めた。驚きつつもそれなら、とA氏も自分自身の不満もさらけ出した。その経験がきっかけとなり、A氏は自身の「我慢するのが会社員」という感覚を変化させ、やがて上司にも言いたいことを言えるようになった。

 

実はこれ、実際に聞いた話を少しだけアレンジしたものです。A氏の「我慢するのが会社員」という自己認識は、上司との関係性の中で築かれたことは間違いありません。でも、それが当たり前の日常となってしまうと、いつの間にかそのことは動かしがたい現実となってしまうのです。

でもA氏はB氏との対話の中で、その現実を語ること(外在化すること)によって、それが上司との関係性の中で築かれた限定的なものでしかないと気付き、それとは違う「本音を話せる」関係性を見つけ出します。

A氏はこれをきっかけに「我慢するのが会社員」という自己認識を語り直します。上司の高圧的な態度という環境は全く変わっていないのですが、A氏にとって自分の行動を抑制していた問題が問題でなくなり、言いたいことはきちんと言うという新たな自分を築いたのです。

精神分析が「本当の自分」を発見し、それを解放するという自分ベースの方法であるのに対し、ナラティヴ・セラピーは関係性に焦点を当てた「気付きー語り直し」という対話ベースの方法です。

実際にはこんな単純に行かないよ!という声が聞こえてきそうです。でも人と人との関係性の力というのは思った以上に大きく、時に動かしがたい現実として自分を縛りつけてしまうということは、往々にしてよくあるように思えます。

自分とは一体何なのか、と感じた時、一度この「気付きー語り直し」という対話ベースの方法を試してみてはいかがでしょうか。

もし環境が変えられなかったとしても、自分の認識が変わることで思わぬ変化が起こるかもしれません。

 

 

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「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由

今日の材料:自分らしさ、自分探し、本当の自分、問い、気付き

このブログの中で「自分らしさ」や「自分探し」は重要なカテゴリーであり、中心となるテーマです。でもネット上でいろいろ見ていると、嫌われることも多々ある言葉です。

日々の生活の中で我慢し、押し込めている「本当の自分」を見つけよう、という考え方に違和感を感じる―「本当の自分」って何?そもそもそんなもの自分でわかるはずないし、わかる必要があるの?と感じられることがその理由の中心にあるようです。

ごもっともだと思います。

「本当の自分」というある種の決定論的な答えが「自分らしさ」であり、その答えを見つけることが「自分探し」ととらえるなら、私もおそらく馴染めないでしょう。

私は以前、「”私が誰か”は私だけでは決められない」という記事の中で、こんなことを書きました。

「自分探し」は、

自分の心の中を必死に覗こうとすることではなく、他の人との関わりの中で自分が何を感じ、どう行動してきたかを見つめ直すこと

そして

 

自分のストーリーは常に進行中 

ということも。

そこに、「本当の自分」というゆるぎない答えはないと思っています。

今ある関係性の中で自分自身を振り返ること―そこでの発見がこれからほんの少しでも生きやすくなるヒントとなるなら、そこにこそ大きな意義があると感じています。

 

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私が長く付き合っているある友達が、「自分がないのが自分らしい」と言っていたことがありました。

彼女は今、若い頃に思い描いていた姿とは違う人生を生きていると感じています。新たな家族と年を重ねて過ごしてきた中で、新たな関係性と価値観を受け入れているのです。

人によっては「本当に幸せなの?」と感じる人もいるかもしれない―でもいろいろ悩んだ過程を経て今の彼女は清々しく、それが自分らしいと言っています。

またネット記事で読んだある人は、一度自分や周りが「自分らしさ」を定義してしまったばかりに、そうでない自分を許せなくなってしまったと語っています。

そしてそのことに気付き、今の自分にとって大切なことは何かをもう一度考え直した時、初めてその「自分らしさ」に苦しめられていたことに気付いたそうです。

どちらも考え抜いた末に今の道を選んだ軌跡はやはり「自分探し」であったけど、そこに特定の道筋はなかったのではないでしょうか。

問いを続けることが「自分探し」であり、そこで見つかる小さな気付きの積み重ねが「自分らしさ」だと考えることで、これまでとは違う光が当たると私は思っています。

そう願い、私は自分自身への問いと気付きをこのブログを書いてきました。

もしご興味があれば、ぜひこのブログのカテゴリ―の「自分探し」や「自分らしさ」をのぞいていただければ幸いです。 

ただこういう言葉を嫌うという人は、それだけ自分に向き合ってきた人だと私は思うのです。

そういう人たちのストーリーと、そこでの「問い」や「気付き」の中にもまた、大切な発見がたくさんあると思います。

 

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