「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

知識に価値があるのは、興味という基礎があるからだ

今日の材料:知識と興味、家庭学習、9月入学、想像力

新型コロナの影響で外出自粛となり、家族と過ごす時間が増えています。

我が家ではこの4月に息子が小学校に入学しましたが、新型コロナウイルスの感染防止のため、その後すぐに休校となりました。学校に通うことが出来ずに息子はずっと家で過ごしています。

1歳半から保育園に預け、幼稚園でも通常保育だけでなく預かり保育をフル活用してきた私たち親子にとって、毎日一緒にここまで長く過ごすのは赤ちゃんの頃以来です。でも息子はもう赤ちゃんではなく就学児童―在宅生活の中で遊びだけでなく、学習の時間もとらなければなりません。

改めて、子供の学習に親がどう向き合うか、私たちが今考えなければならない大きな課題を身近に感じます。

前回『新型コロナを乗り越えたら、世界はきっと変わる 』という記事で、これまでと同じようにはいかないからこそ、考えられなかった知恵に辿りつくはず、と書きました。忙しさに負けてつい学校任せにしてしまう親にとって、子供の生活面のみならず学習の在り方を考えるために必要な機会なのかもしれません。

外出自粛生活となってから、我が家でも在宅での毎日の過ごし方を試行錯誤してきました。平日は休日と区別するため、学校と同じようにまずは時間を意識することから始めました。1時間目、2時間目、と開始時と終了時にスマホでチャイムを鳴らすようにしています。私はアラームを使っていますが、専用のアプリもあるそうですよ。

一応時間ごとにやることは決めていますが、夢中になっていたら継続したり、逆に早めに切り上げてしまったり、スケジュールはかなりざっくりです。それでも毎日チャイムは鳴らすうちに、いつの間にか1時間目とか2時間目は何時まで、という時間を息子もすっかり覚えました。

ざっくりではあるものの時間を区切って過ごすと、1日にメリハリがついて思った以上に過ごしやすいです。「この時間にこれをやる」ときまっていると、気持ちも切り変わるので1日の終わりの疲労感もずいぶん違います。

とはいえそれは大人の事情で、子供はそうそう思うようには取り組んでくれません。やることを決めていても、やる気がないと文句が出たり違うことをやり出したり・・。読み書きなどの退屈な課題ばかりでなく、息子が好きな工作なども取り入れて楽しめるように考えたり、私も一緒にやったりしています。それでも、6歳男児に日々何かしら意味ある吸収をしてもらおうとすると、すぐに行き詰ってしまいます。

改めて学校という場の大切さを知り、先生方の工夫に感謝せずにはいられません。それと同時に、親もそれなりの工夫が必要だと実感します。

そこで、探究心を持って子供を観察してみました。すると、ある瞬間にカチッとスイッチが切り変わる時があることに気付きました。勉強しているか遊んでいるかということに関わらず、そこに何らかの面白さを発見する瞬間があるのです。

例えば先日、息子が(半ばイヤイヤ)計算の問題を終わらせた後ふと思いついて、「この問題でちょっとお話を作ってみて」と言ってみました。

例えば10+3-5+7であれば、

「アフリカのサバンナにシマウマの群れが10頭いました。そこへ3頭のライオンがやってきて、シマウマが5頭逃げていきました。その後、ハイエナの群れが7頭やってきました。今ここにいる動物は何頭でしょう」

変な問題ですが、動物が大好きな息子の目の奥がキラッと光りました。大喜びでその後、ひたすらお話を作っていました。どうしたらもっと面白い話になるか、といろいろ考えを巡らせたようです。

興味は最大の武器だ、とその時思いました。「やらなければならない」が「やりたい」に変わった瞬間です。

子供は勉強は嫌いだけど、遊ぶことならいつまででもやり続けられる、と私は思っていました。でもずっと家にいると、好きなことをしていてもすぐ飽きてしまって間が持たなくなることがあります。新しい発見があれば夢中になってやり続け、不思議なことにそこには必ずしも最初の好き嫌いは関わらないのです

知らなかったことがわかる、出来なかったことが出来るようになる、そのための知識の価値を大人はある程度知っているので、どうにか子供にそれを教えようとします。でも子供にとっての知識の価値は、興味の上にしか成り立たず、「面白い」と思った瞬間に知りたい、やってみたい、という気持ちが芽生えるのです。その瞬間がいつやってくるかは私にも息子にもわからないので、いろいろ試してみるしかありません。

毎日息子と接していて、そのことを肌で感じました。在宅学習でいろいろなことを吸収させたいという気持ちはありますが、今は何かに夢中になる時間の方が大事なのかもしれない、と切り替えるようになりました。

いずれは興味のあるなしに関わらず学ばなければならないことが増えてきますが、「面白い」ことの楽しさを小さい頃に覚えることは、学習面でも工夫する力や考える力につながるでしょう。

そういう訳で、現在の私の日々の課題は息子が食いついてくる投げかけを考えること。これはこれで、上手くはまるとミッションクリアした気分になってなかなか面白いものです。

 

 

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興味という基礎があるからこそ、知識を得ることに価値を見出せる―それは子供だけではないような気がします。

コロナ禍では家庭学習の在り方を考え直す必要がありますが、周知のようにより大きな教育制度の問題や学校教育にこそ対応が迫られています。

例えば制度的な観点では、最近9月入学のことが大きな話題となっています。今回のコロナ禍を機に今後の学年暦を9月始業にした方が、国際基準に合致するだろうという見方が広がっています。

実は明治維新後の教育改革では、日本も西洋に倣い9月始業が実施されたそうです。その後政府の会計年度が4月始まりになったこと等を理由に、4月始業という日本独自の制度となりました。今とは社会も生活も文化も全く異なる数百年前の制度が継続されているという事実に、改めて驚愕します。

とはいえ、突然制度を変えるということになれば、現場の先生方は混乱するでしょう。こういう場合、どうしても変更に伴う業務の煩雑さの方に目がいってしまいます。

でもより広い視野で想像してみると、少し違う風景も見えてきます。従来から高校や大学の入試は風邪やインフルエンザが最も流行る時期で、保護者も受験生も勉強以外の気遣いがたえません。また学校側にしても、公平性が問われミスが許されない入試実施中に受験生の体調トラブルへの対応となると、さらなる準備が必要となります。

さらに今年度は新型コロナウイルスへの不安も避けられないでしょう。

受験生の運命を左右する入試で季節由来の懸念事項が減ることは、学校側にとっても学生側にとっても大きな利益です。制度改革によってむしろ業務の煩雑さが軽減されることもあるのです。

桜の季節に新しい生活が始まる日本の春は、情緒に溢れています。でも、猛暑を越えて心も体も落ち着きを取り戻す秋にスタートする、新たな日本の秋があっても良いかもしません。実現の可否はとりあえず横に置き、新たな可能性に創造的な目を向けることは決して無駄なことではありません。

そして新たな発見を求めて視野を広げ、想像力をフル回転させてみると、「知りたい」という気持ちも強くなってきます

実は日本の大学の中には、既に秋入学を併用しているところがあります。そこでどんなことが起きているのか。小中学校に関しては、9月入学が一般的な諸外国ではどのような学期編成なのか。従来の日本と違う面白さがどこにあるのか、という視点で物事を見てみることで、吸収できる知識がきっとたくさんあると思います。

「変えなければならない」という視点を、「変えたらどんな面白いことがあるのか」という見方に変えた時、知識は生きたものになり、創造的な力を持ちます。心理学の世界ではよく外発的動機づけ、内発的動機づけとよく言われますが、きっかけが外だろうが内だろうが、知識への意味づけを変えるのは、結局そこに前向きな興味が持てるかどうかということだと思います。

学校再開に関しては現在も、現場の先生方は不安を抱いています。とはいえ、これ以上休校を長引かせることはそれ以上の問題を抱えています。今の状況に関してベストな対応策を考えるためには、義務感ではなく前向きな興味をもって考えていくこと、そしてそれを可能とするために、各機関が協力しながら対話を続けていくことが、まだまだ先の見えない今、ますます必要だと思います。

まさに先ほど、息子の通う小学校から休校延長に対する対応として、5月中は毎週月曜日に校庭で課題の配布と提出のための登校をさせる旨の連絡がきました。先生方もいろいろと考えてくださっているのだと思います。親として出来る限り協力し、家庭学習で気付いたことを先生にお伝えしていきたいと思います。

さて、興味があることは山ほどあるのに、知識を得るための時間と要領がなかなか得られない私。息子と毎日過ごす中で、細切れの時間に集中して文章を書く生活リズムには、まだまだベストな方法は見つかっていませんが、今回もようやく最後までたどり着きました・笑

 

 

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新型コロナを乗り越えたら、世界はきっと変わる

今日の材料:新型コロナウィルス肺炎、日常の問題、工夫と努力

新型コロナウイルス肺炎の流行が世界的な問題となり、日本はこれまで経験したことのないほどの深刻な状況に陥っています。

感染者数が日を追うごとに増えていく中、ご自身やご家族が感染されている方々には心よりお見舞い申し上げます。そして私もそうですが、現時点では感染確認されていなくともいつどこで当事者となるのかわからない状況には、誰もが大きな不安を持っています。

中国の湖北省武漢市で、これまで確認されたことのないウイルス性肺炎が流行しているというニュースが広く報じられたのは、今年に入ってからと記憶しています。でも警笛を鳴らす一部の専門家を除いて、新型コロナは対岸の火事でしかありませんでした。

多くの人にとっての身近な問題は2月初め頃、「マスクが手に入らない」といった困りごとから始まりまったのではないでしょうか。当初は中国人観光客に批判が集まるといった局地的な話題に過ぎませんでしたが、日が経つにつれてその深刻さが増し、より日常を揺るがすことが起こるようになりました。

我が家ではこの春に息子が幼稚園を卒園しましたが、3月に入って幼稚園は休園になり、親子行事や謝恩会を含め、卒園にむけて予定されていた全体イベントは全て中止に。卒園式も少人数で保育証書を頂くという縮小されたものになりました。

4月に入って感染者数が急激に増え、重症化したり命を落とす方もごく少数ではなくなり事態が悪化していくと、医療崩壊を懸念して感染拡大地域を対象に緊急事態宣言が発令されました。我が家の居住区でも小学校の入学式は行われたものの、その後すぐに休校となりました。

気付けば、中国や初期にその影響を受け心配されていた韓国を大きく上回る数の感染者数、死者数を記録する欧米各国に続き、日本でも大流行が起こってしまいました。

通勤や通学、買い物や病院に行く、友達との食事やおしゃべり―ごく当たり前に出来たことが今は出来ません。こんな状況、つい数ヶ月前までは誰が予想出来たでしょうか。

未曾有の出来事―それは私たちに、これまで考えてこなかったことに向き合うことを強いています。というのも、今回の新型コロナウイルス流行によって通常の生活が出来なくなってしまった社会には、誰もが納得する「正しい答え」がないからです。

「不要不急の外出を自粛する」、「3密を避ける」ということが現時点で得られる情報と知識を結集して導き出された結論です。でもその要請に従うためには、それぞれの生活圏で様々な問題が生じます。例えばこの春卒業し、入学する学生の皆さんやその保護者の方たちは「なぜこの年にこんなことに・・」と思ったでしょう。その時にしか出来ないこと、その時にしか見られない姿を見ることを諦めなければならない悔しさは、まさに私たち家族も経験したことです。

でも、だからこそ、どうすればいいのかを一人ひとりが考え、工夫して行動する必要があります。そうしなければ事態は悪くなる一方で、これまで当たり前に過ごしてこられた日常は二度と取り戻すことは出来なくなるでしょう。

息子の幼稚園や小学校の教職員の方々は、先例のない事態に戸惑いながらも知恵を出し合い、協力し合いながら、卒園式や入学式を実行するために最善の方法を考えてくださいました。何が正しいのかわからない状況の中で必死に考えて動いてくださっている教育現場の方々には、本当に頭が下がる想いです。

その一方で、現在でも郊外を中心に商店街やスーパーなどが家族連れの人であふれていることや、職場で可能な工夫がなされずに感染の不安を持ちながら働かなければならない人々が多くいることを報じる記事は後を絶ちません。個々の事情はあるでしょうが、自分たちの都合で行動してしまう人々や職場の安全を後回しにしてしまう管理職の人たちは、自分勝手な人というより、考えることや工夫することをしていない、もしくは出来ない人たちと思えてしまいます。

日本では特別措置法に基づく「緊急事態宣言」をもってしても、罰則規定を伴って国民の行動を抑止することは出来ません。行政側はこういう場合にすぐ人権という言葉を使いますが、どうしたら国民の理解と協力を得られるのか、結局そこでも考えることや工夫することが十分になされていないように思えます。

新型コロナウイルスの問題は、例え個人の価値観が多様化する時代となっても全体の利益を追求しなければならない時は必ずあるということ、そしてそういう時に私たちが何を考え、どう動くべきなのかという問いを突き付けているのかもしれません。

 

 

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新型コロナウイルスの流行で、間違いなく生活は不自由になりました。でも、それ以前の生活はどうだったのでしょうか。国の政策のようなマクロの問題にしても身近な人間関係のようなミクロの問題にしても、「変えなければならない」とどこかで気付いていながらも踏み込めないことはたくさんあったように思えます。

今回の新型コロナ問題の対応に関して安倍首相はかなりの批判を受けています。その一方で各都道府県知事の対応への評価は、大きく差が出ているように思えます。もちろん全体の利益を追求しようとすればどんな対応にも批判は必ず出ますし、未曾有の事態であるが故に結果によってはその評価も大きく変わる可能性は否定できません。

でも、現状を吟味して衆知を集め、可能な限り予測に基づいた事前準備とそれに伴う決断をしているのか、それとも目先のことしか考えずに行きあたりばったりの決定をしているのかは、誰の目にもはっきりわかります。それは、平時からの意識や取り組みの違いが大きくものを言います。

個人の行動も同じように言えます。夫婦や家族、友達との関係性にしても、職場の在り方にしても、日常的にそこでの生き方に問題意識を持って考えているのかそうでないのかによって、今の状況に対する対処の仕方には明確な差が出ています。

誰もが他人事ではない、そして世界中どこにも逃げ場がないこの新型コロナ問題は、結局一人ひとりの日頃の在り方をはっきりと見せるもののような気がしてなりません。

先日、絵本作家の五味太郎さんの記事にもこんな風に書かれていました。

こういう時っていつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあ戻ったその当時って本当に充実してたの? 本当にコロナ前に戻りたい?と問うてみたい。

五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方

 

はっとさせられました。

確かにいつ感染するかわからないという不安、感染しても病院にかかれないかもしれないという恐怖、そういった問題はコロナ前にはありませんでした。でも、医療現場での医師不足の問題や少子高齢化に伴うさまざまなひずみ、そもそも日本は崩壊寸前ではなかったでしょうか

今、目の前に乗り越えなければならない大きな問題がある時は必死に考えます。でも私たちには本来、普段から必死に考えなければならない問題が山ほどあったのです。『「そもそも」論・再考 』と言う記事で書きましたが、「目の前の問題」はより早く解決しようとする一方で見えない問題になかなか向き合えないのは、人間の性なのかもしれません。

だからこそ、このピンチに頭をたくさん使い、これまで見逃してきた様々な問題に取り組む覚悟を持つべきなのかもしれません。

もしそうすることが出来たなら、新型コロナを乗り越えた時、世界はきっと大きく変わると思います。

最近の報道は新型コロナ問題一色で、どうしても日々の感染者数や死者数の増加、医療崩壊への懸念材料を報じるものに目が行ってしまいます。もちろん、こうした現実をしっかりと受け止める必要はあります。でも目立たないところには、一人ひとりが変わってしまった日常にどう向き合い、いかに工夫と努力が出来るかのヒントになるような記事もたくさんあるのです。

視聴者である私たちがこうしたニュースに興味を持ったり、自ら積極的に発信したりすることもまた、工夫と努力のネットワークを広げていくことつながっていくと思います。

私自身について言えば、新型コロナ問題で幼稚園が3月に休園になって以降、これまでにないほどに子供と過ごす時間が増えました。

当初はどうしたらメリハリのある時間を過ごせるのか悩みましたが、いろいろな情報を参考にして平日は1日の大まかなスケジュールを決めました。試行錯誤しながら、「考える時間」、「楽しむ時間」、「体を動かす時間」などを少しずつ上手くとれるようになってきました。

でも自分自身に関しては、まだまだうまくいっていません。自分にとって重要な文章を書くという作業には、ある程度まとまった時間集中することが必要です。子供の相手をしながら細切れにやるというのは、かなりハードルが高いです。

実はこの記事も、書き始めてからもう何日経ったでしょうか・・。もともと文章を書くのに時間がかかる私ですが、思うように進めることが出来ない自分の管理力の低さにはほとほと情けなくなります。

でも、だからこそ、ここで工夫と努力が必要です。なんとしてもこの状況を、自分なりの方法で乗り切らなければ。でもそれが出来れば、きっとこれからの生活が大きく変わると思います。 

誰もがこれまでと同じようにはいかないからこそ、考えられなかった知恵に辿りつくはず。そしてその知恵こそが、これまでの世界を変えるはずです。

不幸にも感染してしまった方は、少しでも症状が和らぎ、一日も早く回復されますように心よりお祈り申し上げます。

そして感染が確認されていない私たちは、感染拡大を防止するために制限された生活の中でいかに工夫と努力が出来るかを考え、実践していきましょう。

 

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物事の価値を築くのも、やはり人との関係性だ

今日の材料:関係性、発信すること、対話すること、価値を築く

前々回、前回と2回にわたって身近なトラブル経験の記事を書いたのですが、皆さまからコメント&ブクマコメントで温かい励ましと労いの言葉を頂き、とても力になりました。

この場を借りて、心からお礼を申し上げます。

 

消費者として考える、モノやサービスの価値とは①  

消費者として考える、モノやサービスの価値とは②

 

今もなお、あまり読み返したいとは思えない苦い経験です。でも、自分では情けないとしか思えなかったことに共感してくださったり、励ましてくださったりした皆さんの存在が、私をさらに前向きにしてくださいました。

モノやサービスの価値は人によって決まる、と記事の中でも書きましたが、この経験それ自体も、私自身が今後どう生きるかによってその価値が決まるものなのかもしれません。

記事にしたことで皆さんが言葉を投げかけてくださり、これからまたその価値を一緒に築いてくれるような気がします。やっぱり対話ってすごい!これまで以上にそのことを確信しました。

実は、記事を通しての対話が目に見えるカタチでこんな価値をも生み出してくれたのです。

 

www.my-manekineko.net

 

いつも役立つ記事を書いてくださるまねき猫さんですが、前回の私の記事を読んでコメントでこの「次世代住宅エコポイント」のことを教えてくださいました。記事に書いた実家の給湯器(エコキュート)工事が対象になるようで、おかげ様で申請に間に合いました。

3月末までの〆切間近でしたが、前回の記事でもご紹介した工事会社の方が早急に対応して下さいました。本当に有難かったのですが、何より教えてくださったまねき猫さんに、心から感謝いたします!

まさに、ブログを通じた関係性が生み出してくれた素敵な価値です。

改めて、今回のような苦い経験こそむしろ発信、対話を積極的にした方が良いんだろうな、と思いました。

でも、辛いことにはむしろ向き合いたくない、考えないように目を背けてしまうということも身を持って実感した事実です。特に人との関係性が絡んでくると、ますますその傾向は強くなるような気がします。結果として、(可能なら)その関係性を断ち切るか、貝のように口を閉ざすか・・・いずれにしても発信や対話とは真逆の方向に行ってしまいます。

「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある 】という記事で書きましたが、どんな時にも揺るがない確固たる自分などというものはなく、今ここで誰とどういう関係性にあるかによって、自分の存在はコロコロと変わってしまいます

ほんの少し前の自分が、今はこうやって前向きにブログを書いているような私自身のことを、「ただキレイ事を書いているだけの人」にしか見えなかった瞬間があったように。そして、その後ろ向きな自分を正直に発信したら、また再びブログを書き始められたように。

上に引用した記事でも書きましたが、関係性の中で一時的に築かれた自分、そしてその自分が解釈しているに過ぎない状況であっても、動かしがたい現実になって自分を縛りつけてしまいます。それでも、別の関係性の中に生きたとき、今度はその現実が自分の行動を後押しするようになるのです。

だからこそ意識しなければならないのは、どんな時でも発信すること、対話することを止めない、ということだけなのかもしれません。

もしかしたら私のように、自分自身の言動に良く言えば強い信念、悪く言えば強い拘りを持っている人間ほど、自分のことを思い切って語ることが必要なのかもしれませんね。

 

 

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「価値」ということを考えてみても、やはりこれは物事に本質的に備わっているものではなく、人との関係性の中で変わりうるものだと実感します。

例えば今回の騒動で思いました。エコキュートを作るメーカーの技術者たちの多くは、きっと新たな技術開発という目に見える華やかな価値に目を向けているでしょう。

でもユーザーは、少なくとも私は、今以上の技術を追求する人や時間の余裕があるなら、壊れないもの、壊れても直しやすいもの、もっというなら修理サービスの技術を追求してくれた方が、よほど価値があると思います。

自分の信念、拘りが強い人ほど積極的に発信や対話をし、「価値」の多様性に気付かなければならないと感じます。

でも価値観が多様であるからこそ、対話をすることが難しいのもまた事実です。一体何が正しいのか・・。これだけ世の中が複雑化すると、もはや憤りすら感じます。

 そんな風に考えていた時、「働く」と「生きる」を考える私の指南役かつパートナーI社での対話インタビューで、製造部門に所属するIさんがこんな風に語ってくれました。

 

会社に入ってちょっと違うな、とか、自分のやってきたことが活かせなくてちょっと残念だなって思う人間ってたくさんいると思う。でもある時、機械がお客様のところで止まったりとか、困ってるお客様が私を頼りに相談しにきて、この部品を探してほしい、って。探してきてお客様のところに届けると、営業の人から「お客様に喜んでもらえたよ」とか「ありがとね」とか労いの言葉がぽつぽつとくるようになった。ああ、これが働く目的でもいいんじゃないかな、と。自分が頑張ったことで、人に喜ばれるっていうのは意味がある。困ったら私に相談すればなんとかしてくれるんじゃないか、とか。私も、仕入先さんに頼めばなんとかしてくれるんじゃないか、とか。仲間が出来て、頑張ったことに対して感謝ををされるというのが働く目的の一つになってくる。「ありがとう」でみんながつながっていけば、会社ってきっと良くなっていくんじゃないかな、と。学校でやってきたことが役に立たなくたって、活かせなくたって、別のことで人に感謝してもらえればいいじゃないか、って。

 

私はこのお話にすごく共感しただけでなく、「価値」とはこんなにもシンプルなんだと感動しました。共感し合える仲間がいるという関係性、「ありがとう」と言い合える状況、確かに私自身もそこに大きな価値を感じます。物事の価値はこんなにも単純なことなんです。

働く環境の不確実性、人間関係の複雑さ、仕事の煩雑さ・・。日々の雑事の中ではつい見失いがちになってしまいます。でも私だけでなく、Iさんの考える「価値」に共感する人は多いのではないでしょうか。ほんの少し自分が意識を傾けることで、周りの人と共有できる価値はいくらでも見えてくるのかもしれません。

以前、【「働くということ」を問い直すー自分軸で生きるためにー 】という記事で、「働く」ということを「自分軸を持って生きる」という視点で語りましたが、働くことの価値、働いたことによって生み出される価値もまた、一人ひとりが自分軸を持って生きられるかにかかっています。

でもこの自分軸というのは、決して自分だけで決められるものではない―ということを、I社のIさんの気付きが教えてくれました。

それは人から押し付けられたり強制されたりしても気付けない、こんな風に誰かのストーリーに共感することで気付けることなのかもしれません。

気付きが連鎖すること、これも関係性が築く価値の一つですね。

人との関係性は、大きな負担になることもあるし、大きな価値になることもある―それは生きていく上で、誰もが経験することでしょう。

でもどうせなら、その価値を大事にしたいですよね。

そのために出来ることはやはり、発信することであり、対話することなんだと思います。

 

 

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消費者として考える、モノやサービスの価値とは②

今日の材料:今日の材料:マンション、エコキュート、工事業者、自分の弱さ

実家のマンションで給湯器(エコキュート)が壊れ、修理代が大きくかかるため入れ替えとの検討もしたものの工事会社の対応がひどく、挙句に貯湯器を収納している場所に不具合まで見つかった前回の話の続きです。

 

 

 

 

トラブル5:不動産会社の対応

 

 実家のマンションの管理会社と不動産会社に、「給湯器がキツキツに入っていて新規のものが入らないだけでなく、既設のものを取り出すのも困難」という貯湯庫の問題について連絡しました。ところが驚くことに、ここでも前回同様にたらい回しに逢いました。さすがに私もキレて、「前も同じように言われましたが、これは間違いなく施工の問題だから、不動産会社で対応してください」と強く言いました。

そこでようやく不動産会社の顧客サービス担当者が施工会社の担当者を連れて現状を確認しに来ました。でもその見解は、「工事会社の技術の問題で、出来ないことはない」。

そもそも、出し入れがスムーズに出来ない時点で施工の問題ではないのでしょうか。多少の自覚はあったのか、「工事が出来ないと言った修理業者と確認し、ベストな方法を考えますのでお時間をください」と言って帰っては行きましたが、すでにお湯が出ていないんです。不動産会社の対応には心底がっかりしましたが、もうこちらはこちらで対応するしかないと割り切りました。

(※ちなみに、「お時間をください」と言われてから1か月半経ちますが、未だにそのことに関する連絡はありません。)

 

ネットで見つけた工事業者に助けられました

 

前回の記事でも書きましたが、修理業者への見積もり依頼と同時に別の工事会社を探し始めていました。何の情報もない中でネットで調べると、エコキュート販売と工事はインターネット通販や家電量販店、地元の電気屋さんやリフォーム業者など、大小含めて数多な業者が請け負っており、どう選べばいいのかさっぱりわかりません。しかも複数業者に相見積もりを取っている余裕もないとなれば、もう自らの勘に頼るしかありませんでした。

金額や施工実績はもちろんですが、ここで私が重視したのは業者が発信している情報でした。自社の宣伝だけでなく、エコキュートの工事や使い方、修理対応など、ユーザー視点に立った情報をどれだけ発信しているかということは、その業者の経験の豊富さと、どれだけお客さんの立場になれるかということが見えるものだと思いました。

そこで選んだ工事業者は母体は小さいものの全国に協力工事店があり、エコキュートに関する施工実績も多い会社でした。とにかく電話をしてみると、受付の女性の対応だけでも前の修理業者とは全く異なり、安心できるものでした。

その後、営業担当の方にこれまでの事情を話すと、経験の範囲でわかること、こちらが求めていた情報を的確に教えてくださり、誰も頼れず五里霧中にあった状況の中で本当に救われる想いでした。今回、早期の故障や修理でかなり苦慮したので、設置後の修理対応についてもしつこく事細かに聞きましたが、全てにきちんと答えてくださいました。

工事繁忙期であるため、仮見積もりでこちらが発注の意志を示してから工事担当者が下見をし、金額が変わらなければ正式な発注となる段取りでしたが、お湯が止まってしまったこちらの事情を察して下さり、正式な発注の前にすぐに仮で工事日程を組んでくれました。

この工事業者の工事スタッフが貯湯庫を確認した結果、やはりキツキツで給湯器に多少傷がつくことは了解してほしいけど、使用には支障がないものだということ、また配管は既成のもので万が一傷つけても直すことが出来るので、鉄柱は動かさなくても工事は可能という判断でした。営業担当の方からは、「工事が不可能とお断りすることもある」と聞いていたので、心底ほっとしました。

ようやく出口が見えてきました。その時点で工事日まで2週間近くあったものの、工事繁忙期に相当頑張ってくれた結果です。正式に発注し、あとは商品の納品を確認してもらうだけでした。

 

ここで大団円・・とはいかなかった

 

ところが、ここまで来て商品の納品が間に合わないということが判明しました。営業担当の方は、水漏れのリスクが大きいマンションの上階には絶対にあった方がいい緊急停止機能がついている機種を紹介してくれたのですが、その商品は受注生産で納品に1か月半以上かかってしまうことがわかったのです。

その他の商品であれば工事には間に合うけど、この機能は絶対に必要だと営業担当の方は言います。でも、他のメーカーで同じ機能を付けると、価格が大きく上がってしまう、と。

恐らく「売ること」だけを考えれば、間違いなく他の商品を進めてきたでしょう。でもこの営業担当の方はそうはしませんでした。それまでいろいろと相談に乗っていただいた過程で、その人が「お客さんが日々の生活の中で安心してお湯を使える」ということを一番大切に考えてくれていることが本当に伝わってきました。それは設置するだけで終わることではないのです。

とはいえ、真冬に高齢の両親がお湯無しでこれ以上長期に過ごすことには限界がありました。苦渋の決断で、ヒートポンプだけを交換することにしました。結局発注には至らなかったにもかかわらず、営業担当の人は修理の値引き交渉や、個人より管理組合に相談して対応した方が良いといったアドバイスまでしてくれました。

一方でマンションの管理会社などはただ話を聞くだけで、「ヒートポンプを交換すれば直るんですよね」などと言ってきましまた。15万円かけてもその後の保証もなく、修理する業者も信用できず、しかもいつかは必ず壊れて交換する必要があるのに、その時業者が見つかる保証もない。そんなこちらの事情は全く眼中にないのです。

いかに相手の立場になれるかということは、個人の器量なのでしょうか。それとも会社の環境なのでしょうか。いずれにしても、結局モノやサービスの価値を決めるのはそれを扱う人なんだ、と改めて実感しました。

 

そして、どんでん返し

 

そこから、まさかの展開が待っていました。「壊れたら必ず御社にお願いします」とお世話になった工事業者にお断りを入れた翌日、営業担当の方が連絡をくださり、「あれからも探してみたら、あったんですよ!ある倉庫に!」と。「もちろん、修理依頼のキャンセルが出来るか、それをされるかどうかはお客様次第なのですが・・」と言ってくださいました。

運良く私の方の都合で修理業者への依頼はその電話が来る直前にしていたため無事キャンセルすることが出来、新規入れ替え工事が出来ることになったんです。

しかも、その営業担当の方はその日、休日だったにもかかわらず、手配業務をしてくださいました。仕事に信念を持って働いている、こういう人こそが自分軸で生きている人だと心から思いました。工事の日までは不安もあり、対応についてもまたいろいろ質問してしまったのですが、いつでもきちんと答えてくださるだけでなく、「お任せください!」と自信を持って言ってくださいました。感謝だけでなく、尊敬の気持ちでいっぱいでした。

 

工事は無事に終了し、お湯が使えるようになりました

 

当日、工事スタッフの方々も感じの良い方たちで、思った通り既設のエコキュートを搬出するのには相当手間取ったものの、根気よく対応してくださったおかげで無事工事は終了しました。

実はこの日、工事のことを連絡した管理会社と不動産会社の担当者が「参考のために」と視察に来ました。私たちのためではありません。今後同じようなことが起こったときの対処のためです。

聞けば修理業者の対応の問題はうちだけではなかったようで、私が自分で探した工場業者の対応が良さそうなので今後も紹介させてもらいたいと言っていました。

もちろん、一連のことに対するこちらの考えは全て話しましたが、「申し訳ありません」というだけです。私たちはただの実験台みたいなものですよね。ハラワタが煮えくりかえるとはまさにこのことです。でも結局「大きい会社」という安易な判断基準で不動産会社を選んだ私たちの責任でもあるのでしょう。せめて今回の経験が、誰かの役に立てばと願うだけです。

 

 

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人生はドラマかと思う・・まさかの展開

 

実はこの話、これでは終わらなかったんです。

無事に工事が終わり、管理会社の担当者も不動産会社の担当者も帰っていったのですが、後から不動産会社の人が戻ってきました。

「実は、今回の製品に今日、メーカーからリコールがかかりました。ヒートポンプの不良が発覚したそうです。先ほど工事業者が持ち帰った壊れたヒートポンプを回収させてもらえませんか」

工事の当日にリコールって・・・。仕組まれていたのかとすら思えてしまいますが、「やはり欠陥品だったのか・・」というオチです。でもその不動産会社の担当者は根拠もなく「今回のお客様の不具合とは関係ないということはわかっているのですが」ということを言っていました。どこまで責任回避したいんでしょうか。

そして、その日から約1か月経ちますが、メーカーからも不動産会社からも何の連絡もありません。あんなに苦労して、結局全て自分で対応して、その問題のヒートポンプはリコールがかかった・・。こちらがどれだけ悔しい気持ちか、想像するのはそんなに難しいことではないと思います。

昨今の新型コロナウイルス問題でいろいろと対応が難しくなっている可能性もありますが、これまでの対応から考えても、こちらが何も言わなければ何も連絡はないかもしれません。もはや残念を通り越して、全て忘れたい、なかったことにしたいとすら思ってしまいました。

 

結局、自分の弱さを嫌というほど知った

 

文章がだんだん後ろ向きになっていることからも伝わるかもしれませんが、今回のことは相当に堪えました。あまりに辛くて、自分がこれまで「自分に向き合おう」とか、「想いをきちんと伝え合おう」とか書いていたことが全て綺麗ごとで現実離れしているように思えてしまいました。

本当に情けない話ですが、ブログを書くのも読むのも辛くなってしまって・・。実は前回記事を書いた後も、また思い出すのが辛くなって記事を書き進められない上に、思い切って別の話題にしようとしても、やっぱり書けなくなってしまいました。

これまで、年齢なりにいろいろな経験をしてきたつもりで、それなりに肝が据わってきたつもりでした。でも今回人の対応に泣かされ、こちらがどんなに状況や想いを話しても、伝わらなかった・・。結局何も納得できないまま終わってしまい、人が信じられなくなっただけでなく、自分自身がこんなにも弱かったのか、ということも嫌と言うほど思い知りました。

回収されたものがどうなったのかを問い合わせられなかったのも、また相手の対応に傷付けられるのが嫌だったからです。もう何もかも忘れたくなりました。

「対話が大事」と何度も書いていた私が、こうですからね・・。

でも少し時間が経ち、情けない自分のことも含めて全て書けなければ、「書くことに信念を持つ」とは言えない、と思い直しました。メンタルが弱くて切り替えが出来ない、そんな自分には嫌気がさしますが、だからこそ続けなければ何も変わりません。

答えは出ないかもしれないけど、きちんと言うべきことは言おうと思い、不動産会社の担当者に回収したヒートポンプの検査結果をきちんと報告してもらえるように連絡しました。

ちなみに工事は無事終わり、お湯もきちんと出ています。それが決して当たり前でないことに気付けたこと、ネット情報でも真摯に対応していただける業者を見つけることは可能だとわかったことが、この経験を前向きにとらえさせてくれると今は思っています。

自分が書いてきたことは決して簡単に出来ることではないと、改めて自覚しました。だからこそ、ダメでもまた向き合っていかなければならないということも。そのことを心に持ちつつ、また頑張って書いて行こうと思います。

 

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消費者として考える、モノやサービスの価値とは①

今日の材料:消費者、モノやサービスの価値、エコキュート、マンションの施工

今年に入ってから消費者としてちょっとしたトラブルに遭い、モノとかサービスの価値について深く考えさせられました。少し長くなりそうなので数回に分け、経験とそれについて考えたことを記事にしたいと思います。

個人の忘備録として詳細に書くつもりなので、あまり興味がない方もいたら申し訳ないですが、もしかしたらどこかで誰かのお役に立てばいいなと願っております。

事の発端は昨年末から、実家の両親が「お湯の調子が悪い」と言い始めたことです。

7年ほど前に今後の生活の不便さを考えて長く住んでいた家を離れ、新築マンションに移り住んだ両親はもう80歳前後。ややこしい手続きは難しいらしく、よくヘルプの声が上がります。

今回は「給湯器が壊れた」ということで、普通に考えれば直せばいいというだけの話ですが、私たちの当初のその予測は見事に裏切られました。結局、今年に入ってから1か月半以上どっぷりと悩ませられる出来事になりました。。

 

 

 

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エコキュートというシステムをご存じですか

実家の給湯器はエコキュートという2000年以降に開発された比較的新しいシステムです。その特徴は電気代のかからない夜中にお湯を沸かし、大きな給湯器に貯湯して昼間にお湯を供給するというもので、エコで電気代の節約になることが売りです。マンション購入を検討していた時期は東日本大震災のすぐ後だったので、断水した時でも貯湯されている水が使えるということもかなりアピールされた記憶があります。

モノを買うときはたいてい、こういうメリットばかりを強調されますよね。でもエコキュートは初期費用が非常に高いことや、貯湯する給湯器が大きくそれなりのスペースを必要とするというデメリットもあります。私はモノを買うときはあえてデメリットを聞くようにしているのですが、実家のマンション購入の際は考えることが多すぎてそこまで頭が回りませんでした。

最初にエラー表示が出たのは昨年の夏。その時はすぐに直ったものの、保証の5年を過ぎていたので出張料に技術料、部品代で2万5千円弱かかりました。その後年末になり、エラー表示はないものの今までと同じように使っているのにお湯が足りなくなったり、昼間に頻繁に湧き増しがかかるという事態が続いたようです。

両親はお風呂に入るのも気を遣う状況でした。

 

トラブル1:メーカー指定の修理業者の対応

実家のエコキュートは誰もが知る大手メーカーの製品。昨年末から続く不具合で、今年に入ってすぐにその相談センターに電話して、指定の修理業者が来ることになりました。私も立ち合い、修理スタッフが一通りリモコン操作したり給湯器やヒートポンプ(お湯を温める室外機のようなもの)を見てくれたものの異常なしとの診断。「多めのお湯を作るように設定を変えて様子を見てください」と言われ、今回も出張料と技術料をしっかり請求されました。

半信半疑だったものの、異常がないと言われれば仕方ないので様子を見ることに。でも不具合は解決せず、もう一度メーカーに電話して同じ業者に手配をしてもらうことになりました。ところが修理費用について確認すると、前回来てもらって解決していない問題なのに今回も新たに出張料や技術料が請求される、と受付の女性が言うのです。それはおかしいですよね、と言うと、その女性は何がおかしいんですか、逆ギレ。

呆れながらも話し続けると、しぶしぶ「メーカーに相談します」とのことで、その後メーカーから当たり前のように一連の修理代は一度の請求になると確認しました。日常的に修理依頼を処理している受付がきちんと対応できないことも問題だけど、そのことにメーカーが全く危機意識を持っていないことの方がもっと問題だと感じました。不安を覚えながらも修理に関してはメーカー指定の業者を使うしかないらしく、何かあったら直接メーカーに聞けるように担当者の連絡先を確保しました。

 

トラブル2:その修理業者が故障を特定できていなかった

前回の訪問から約10日後に2人目の修理スタッフが来て点検をしたところ、即座にヒートポンプの故障を特定しました。なぜ前回の人が特定できなかったのかを聞くと、「たくさんのメーカーを扱っているので、その製品に詳しくない者もおりまして」と。

は?だってメーカーが指定したんですよ、オタクを。

しかも、今回のヒートポンプ故障、基盤に関わる部分で修理が出来ず、ヒートポンプそのものを交換する必要があり、修理代は15万円かかるとシレっと言われました。

は?まだ7年も使っていないのに15万?

しかも、ヒートポンプだけ替えても給湯器と新旧の相性が悪いので、どこまで持つかはわかりません、と。修理保証は3か月、しかも交換したヒートポンプの保証のみだというのです。すでに給湯器の方も昨年夏一度壊れているし、今後また修理代がかさむ可能性はかなり大きいです。

納得できない部分が多くきちんと確認したいし、総入れ替えすることも比較検討する必要があります。でもその修理スタッフは何を聞いても返事はあやふや、修理見積もりも大雑把にしか出そうとしないし、挙句に総入れ替えと比較検討したい旨話すと、「それは(マンションの)管理人さんに聞いてください」と。恐らく大口の顧客対応しかしていないのでしょう。

話にならないので、まずヒートポンプ故障について再びメーカーに問い合わせました。メーカー担当者が修理スタッフと技術担当者に確認したところ、今回の故障は経年劣化で使い方の問題ではないけど、保証は5年なので実費。「あまりに壊れるのが早い」といくら訴えても、「機械なのでそういうことも」と言われたら何もできません。15万円も支払って後の保証もないなら、全て入れ替えて10年くらいの保証を付けて安心して使えた方がいいんじゃないか、と考えて聞いてみると、修理見積もりは出せるけどメーカーは直接個人からは見積もり依頼を受けられないと言われました。

 

トラブル3:マンションに既設の設備でも、入れ替え対応はしてもらえない

困り果てて、マンション設備のサポートセンターに問い合わせてみても、「マンションの専有部分はお客様の所有物なのでお客様の方でご対応ください」と。そこで管理会社に問い合わせてみると、規約上は給湯器のメーカーや工事会社の指定がないからどこでも良いけど、機能的な仕様については不動産会社に聞いてと言われました。そこへ電話すると、「2年以上経った物件については設備のサポートセンターへ」と。1周廻って戻りました(笑)。絵にかいたようなたらいまわしです。

例えばエアコンとか冷蔵庫など、自分で買ったものであればすべて迷わず自分で処理しますよね。でも今回はマンション購入時から既設のものであり、しかも貯湯庫はアンカーや配線など特殊の工事が必要になります。既設のメーカーを使った方がいいのか、それ以外のものでもいいのか、どこの工事会社に頼んだらいいのか、自分では判断できないと普通は考えますよね。でもそうしたことに対して、大手にはありがちな無駄に窓口が多い売主の不動産会社も管理会社も、誰も応えてくれなかったのです。

1周廻って戻ってきた設備のサポートセンターで、「どこに電話してもたらいまわしです」と言うと、オペレーターの人が同情してくれたのか「一般論になりますが・・」と前置きした上で、アドバイスしてくれました。規約上制約がないなら自分で工事会社を探し、貯湯庫を見てもらってどのメーカーを使うかを相談するといいのでは、と。自分でやるしかないのは同じでも、そういう方法でアプローチすればいいとわかっただけでも助かりました。

修理業者は信用ならないものの、全棟合わせて300世帯近いマンション全世帯を担当していることもあり、管理会社に確認した上で個人として入れ替え工事の見積もりをお願いしたいと頼みました。同時に別の工事業者に相見積もりをお願いすることにしました。

 

トラブル4:貯湯庫の問題で、入れ替えが困難と判明

まず修理業者に入れ替え工事の見積もりをしてもらうため、給湯器が入っている貯湯庫を確認してもらったところ、今度は給湯器がキツキツに入っているという別の問題が発覚。このままだと新規のものが入らないだけでなく、既設のものを取り出すのも困難だというのです。確かに素人目にも右に配管、左は水道メーターを取り付けるための細い鉄柱がそれぞれほとんどピッタリくっついていて、高さも奥行きもある給湯器を取り出すのは相当困難だとわかりました。明らかにマンションの施工の問題です。

後日改めて修理業者の入れ替え工事担当者が見に来ましたが、やはりかなりリスクの高い工事になるとのこと。見積もりもなかなか出て来ず待たされた結果、電気メーターのついている鉄柱をずらす追加工事が必要で、2,3日かかると言われました。ただでさえ個人で頼んでいるのに余計な費用までかかり、総額は目が飛び出るようなもの。しかもマンション施工に関わる工事をするというのに、そのことをどこにどう確認したかも明確にしてくれない、とてもじゃないけど任せられない業者だと思いました。

解決の糸口が見えない中でとうとう完全にエコキュートが止まり、両親は1年で一番寒いこの時期にお湯が使えないとう状況になりました。

まさに泣きっ面に蜂な状況で、八方塞がりでした。

 

続きは次回。ここまでの経験で私が考えたこと

長くなったのでこの後の展開は次の記事にしますが、この時点で全く先が見えず、特に母親が心身共にバランスを崩していたし、私自身も息子の登園拒否と重なってかなり参っていました。

震災被害などを考えれば、お湯が出ないなんて大したことではない!と当初は前向きに考えていたものの、解決の糸口が見えないとなると思った以上に堪えます。普段当たり前のように整備されている生活インフラ、なくなって初めてその大切さに気付くものなのかもしれません。

その一方で、その生活インフラのど真ん中にある住まいや設備を担う人たちと関わり、そこで露呈する価値意識とその違いが引き起こすトラブルに巻き込まれたことで、消費者としてモノやサービスの価値って一体なんなのか、深く考えさせられました。

例えば今回、マンションの管理会社の担当者などは要所要所の話を聞くだけで、「ヒートポンプを交換すれば直るんですよね」と言ってきました。確かにお湯が出ないという今の状況は一時的には解消されるかもしれませんが、決して安くはない修理費用です。その後の十分な保証もないし、修理業者に対する不信から、そもそも本当に直るのかという不安さえったのです。

さらに言えば、いつかは必ず壊れて交換する必要があるのに、貯湯庫には明らかに問題がある。そのことについて明確な対応も見えないまま問題を先送りしようとすることの意味が私には全くわかりませんでした。住まいに関わる人たちにとってのモノやサービスの価値って、住んでいる人が安心して暮らせるということではないのでしょうか。私には、ここまでに関わってきた人たちにそういうことが眼中にあるようには全く見えませんでした。

では、消費者である私たちはどうなのでしょう。今回、やたらと窓口の多い不動産会社で誰もが口を揃えて「お客様の方で対応してください」と言うのはどうしてなんだろう、とふと考えたとき、思い浮かんだことがありました。

恐らく何かを言えば、自分の責任にされてしまうという意識が働いたんだと思うのです。もしくはそういう教育を受けているのかもしれせん。それはきっと消費者側が何でも「お前のせいだ」と責任を転嫁しようと姿勢があるからなのではないでしょうか。

消費者である私たちが「お客様は神様だ」と自分たちで考えることもせず、何かあれば全て相手のせいにしようとすれば、必然的に提供者は防御線を張ってしまうでしょう。そうすることで、結局モノやサービスの質は改善されるどころか低下する一方です。思起こせばマンション購入時も、「重要事項の確認」と称して後から文句を言われないような説明と確認に異常に時間をとられました。

本来ならそんなことに時間をとるより、どうしたら快適な住まいと環境を維持できるのか、という対話を出来る場を作った方が、ずっとその価値は大きかったはずです。そもそも供給者と消費者の信頼関係さえあれば今回のような問題でここまで苦しむ必要はなかったと思うのです。

実際に、「一般論ですが」という前置きをしつつもアドバイスをしてくれた設備のサポートセンターの方のおかげで、私は一歩前に進むことが出来ました。問題に対して責任を擦り付け合うだけでなく、お互いの知識と経験を活かして話し合えば、モノやサービスの価値は上がっていくはずです。

一人ひとりがほんの少しでも意識を変えれば、それは決して難しいことではないはずです。実はこの後、こういう価値観を共有することは不可能ではない、と思える出会いがありました。

続きは下記からどうぞ。

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

 

 

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新たな学びを生むために、一人ひとりが出来ること

今日の材料:学校教育、意識転換、対話、発信する勇気

前回、【未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える― 】というタイトルで学校教育をテーマに記事を書いたのですが、それに対してTAKAさん【id:virtue000000】から以下のようなコメントを頂きました。

 

答えを出す→何→受動的/問いを組み立てる→いかに→能動的
という認識ならば、これからの学校教育は問題提起の力を養う場であるべきということになります。それを踏まえて質問なのですが、その様な学びはどの様なもので、どの様に学校教育に取り入れるべきだとkiki_shさんはお考えなのですか?

 

とても興味深い内容なので、今回はそのことを考えてみようと思います。

まず始めに明確にしたいことは、「どういう学びをどう学校に取り入れるか」ということに関しても、どのような文脈にも当てはまる「答え」はない、ということです。

このブログで常々書いてきていることですが学校教育に関しても同じで、どこかにある「答え」を探すのではなく、一人ひとりが目の前で起こっていることに真摯に向き合い、みんなでその「答え」を創っていくという意識を持つことから始めていく必要があると思います。

「答え」ありきで考えることを止めると、必然的に「問い」の方に目が向きます。そして「問い」に目を向けるということは、「相手に理解させよう」という意識を「相手を理解しよう」という意識に変換しようとするものではないかと思います。

前回、「教員もまたいかに学びのプロセスに関わるかを「学ぶ」ことが必要」と書きましたが、こういう意識を持っている先生方はおそらく生徒の話を聴こうとしたり、生徒のことを知ろうとしたりする姿勢を持っているのではないでしょうか。

自分の経験から例を一つ挙げてみましょう。私は予備校で英語を教えていたのですが、英語が苦手な生徒には本当に基礎の基礎から教える必要がありました。それこそ、「助動詞の後ろは動詞の原形になるんだよ」というところからです。

そこである生徒が言ったのです。「助動詞って何ですか」と。

ある先生は呆れかえっていましたが、ある先生はその生徒がこれまでどのように英語を勉強してきたか、ということに興味を持っていろいろ話を聴きました。すると、その生徒は高校で英語の試験問題を教員が全て事前に教えていた、ということを聞かされたそうです。普通に考えれば信じられない話ですが、実際にそういう学校も存在するのです。

「答え」ありきもここまでくると笑い話にもなりません。ただ、そこから対話を続けて行く中で、その生徒はかなり時間がかかったものの、最終的には難しい文法もしっかりと理解できるほどの英語力をつけたことを私自身が目の当たりにしました。

このストーリーを「対話」という”方法”と「成績が上がった」という”結果”だけ結び付けて考えるとしたら、「そんなにうまくいくはずがない」ということになるでしょう。

でも、これもこれまでのブログで書いて来ましたが、一人ひとりの変化や成長の道筋は、その個人の物語の中でしか説明できず、単純な因果関係ではないのです。だからこそ、学校教育においても様々な人が関わり、そのプロセスで関わる人自身もまた自己を顧みながら根強く対話を続けて行く必要があると思うのです。

 

 

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学習指導要領で「何を教えるか」ということを明確にしていますが、そのこと自体は否定すべきことではないと思います。

全く知識がない子供たちに突然「問いを立てなさい」というのはまず不可能です。識者たちが考え抜いた学習目標を教育の指針とすることは、決して無駄なことではないですし、行動する上での最初の目標になるでしょう。

ただ【未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい】という記事でも書いた通り、目標はあくまでも行動のきっかけにすぎません。教育の現場を生きている教員には何がベストかを見極めるためにより裁量が与えられるべきだと思いますし、その一方で教員としての在り方を常に振り返る場が必要だと思います。

もう何十年も前になりますが、私が非常勤で学校教員をしていた時の教育現場はあまりにも閉鎖的で、他の先生が何をどう教えているかを共有する機会はほとんどありませんでした。今はもっと改善されているのかもしれませんが、教員同士の対話の場を作るということは仕組みとして作るべきだと思います。

その一方で、学校という現場にはいろいろな闇があることもまだ現実でしょう。学級崩壊ということが叫ばれるようになって久しいですし、各種の圧力が加わることでモチベーションが下がってしまう先生も多くいることは察して余りあります。そういう中で何がベストか、となると、私のように現場を知らない人間が気軽に話せるようなことではないということは承知しています。

こういった状況を少しでも改善するためにも、教育行政という場でこそもっと対話の場を意識的に作っていくべきだと思います。特にそういう場では境界をなくし、親や地域を巻き込んで、「答え」を出すのではなく長期的に対話を続けて行くことを目的とすることを考えるべきだと思います。

どこかに対して一方的に苦情を言うのではなく、一人ひとりが主体性を持って学校教育に関わっていく姿勢を見せることこそ、将来的に子供たちが「問いを立てる」ことに価値を置けるようになるための最大のきっかけになるのではないでしょうか。

学校教育とは関係ないのですが、実は私自身が今、消費者としてトラブルの渦中におりまして、そうはいってももう巻き込まれたくないと思うほどストレスフルな経験をしております。

こう書いてはみたものの、もはや逃げ出したくなるほどの日々の苦労を抱えている学校教育の混沌とした現場を想像すると、非常に苦しい気持ちになります。それでもやはり、考えることを止めてはいけないように思えます。

発信する勇気を持ち、一人でも二人でも仲間を見つけ、小さなことからでも変えて行く努力を一人ひとりがしていくことが、きっと何かを生み出すと信じています。

 

 

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未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える―

今日の材料:学校教育、学びの創造、社会生活、いかに学ぶか

 

40代半ばの私の子供時代、日本経済はまだまだ活発で、高校生になる頃まではいわゆるバブル景気真っ只中でした。大量生産、大量消費経済の中で、物事の標準化や均質化にこそ価値が見出されていた時代です。今思えば、教育カリキュラムもいかに標準的、均質的な知識を身に付けられるかに重きが置かれていたように思えます。

それは学ぶ側の視点ではなく、教える側の視点ともいえるでしょう。子供たち一人ひとりに「何を学んでもらいたいか」より、先生が「何を教えるべきか」の方が明らかに先行しました。だからこそ「何のために勉強をするの?」は、子供の「質問あるある」だったように思えます。

そして、この状況は今も根本的には変わっていないと思います。

確かに、教育カリキュラムの内容は少しずつ変わってきました。私たちの頃にはなかった生活科の新設、さらには自分で学び考える「生きる力」を育むといった文言が、学習指導要領で表現されていることは良く知られています。

でも結局、学校が「知識を伝達する場である」という枠組みはあまり変わっていないように思えます。取捨選択を考えなければ「知識」はネットでいくらでも手に入るこの時代、今こそ学校という場が持つ価値をより深く問うべきと感じます。

最近よく、「協同学習」や「学び合い」という言葉を耳にします。そこでは、知識は一方的に伝達されるものではなく、グループでの課題達成といった実践的な関わりの中で創造的に学ばれると考えられています。

学びの創造性は、学校教育の価値になりうると思います。

ただこうした教育の在り方は、教員の関わり方によって大きな批判の対象となることもあります。その批判の中心にあるのは、「学び」を生徒任せにするという放置の姿勢です。「学び合い」や「協同学習」というなら、教員もまたいかに学びのプロセスに関わるかを「学ぶ」ことが必要です。

ちなみにこうした活動は「アクティブ・ラーニング」とも表現されますが、「アクティブ」となるのは多くの場合生徒であると理解されています。学校を「学びを創造する場」へと変革するなら、教員こそ自らどう関わるべきかを「アクティブ」に学ぶ主体であるはずです。

さらに言うなら、学校だけでなく家庭や地域社会もまた「アクティブ」な学びの主体であるはずです。子供たちの学びのプロセスをいかに創造していくか、そのためにそれぞれがいかに関わり合っていくのか、常に問いを立てて考え続けて行く必要があると思います。

教育の現場ではさまざまな取り組みが試されてはいるものの、こうした関わり合いがうまく機能せずにまだまだ混沌としています。

でも、そのモヤモヤは必要なものだと私は思います。【「そもそも」論・再考】や【「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由 】という記事でも書いているように、「答え」を探すことより考え続けることにこそ意味があるからです。

親として、もしくは今後、学校や地域の中でも何か役割を得ることもあれば、それぞれの立場から「アクティブ」に学び、取り組んでいきたいと思っています。

 

 

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「何を教わるか」より「いかに学ぶか」を考えることは、子供たちが社会に出てからその結果がより顕著に表れるように思えます。

「働く」と「生きる」を思考する私の指南役かつパートナーでもあるI社【☆参照】で先ごろ対話インタビューをしていた時、入社5年目のNさんがこんなお話をしてくださいました。

彼は入社して2年目をピークに、入社説明会で聞いて想像していた仕事とあまりに違うことで、会社を辞めたいとすら思うようになりました。先輩や仲間と日々の対話を通して物事を解決したり改善したり出来ると期待していたのに、自分じゃなくても出来る仕事を日々こなさなければならなかったからです。このまま何十年と働き続ける自分を想像することが出来ませんでした。

悶々としながらも仕事を続けて3年目となり、これまでやってきた工程とは違うある種の「結果が見える」仕事をしていた時、ふと自分の会社が作っている製品に興味を持ち始めました。製品のことを知りたいという気持ちは、自分がその仕事の中で何が出来るかを考える、というところにもつながっていきました。

3年目のその仕事は最初の仕事に比べ、社内で他の部署の人たちとも交流がある仕事でした。彼はその後さらに異動によって今度はお客様とも関わる仕事に携わるようになり、現在は新たなやりがいと課題にも直面しています。でもその多様な関わりの中で、彼は自分がI社の中ですべきこととしっかりと向き合えるようになっていました。

Nさんはこんな風に話しています。

 

最初の3年っていうのは、自分で考えてうちに秘めて、口に出さないだけの時間がただ過ぎていって、それを周りのせいにしていた。最近は思ったことを相談したり口に出したりすることで、周りの人の意見も聞けるようになってきた。自分で思うことを意見しないと周りの意見も聞けないし、自分の考えが間違っているのかあっているのかもわからない。

振り返ったり、周りの意見から自分が学ぶことも多くあるし、自分の中の小さい器ではだめなんだな、と。いろんな角度の意見を聞くことで、自分がやるべきこと、やらなければならないことも見えてくると今は思う。

 

新卒の社員が入社後の一定期間で会社を辞めてしまうという問題は、いろいろな場で耳にします。その理由は様々だとは思うのですが、「いかに学ぶか」に関する経験の少なさが大きく影響しているように思えます。

もちろん、いわゆるブラック企業のような会社で心と体を壊してまで会社を続けるべきではありません。「自分を守る」ということは、働く上で最も重要な判断基準です。ただそれとは違う状況では、「いかに学ぶか」という経験が大きく影響するように思えます。

学校教育の中で「何を教わるか」を重視しすぎると、学ぶ側はやり方さえ知れば必ず「正解」がどこかにあると思うようになります。でもNさんのように、日々のモヤモヤを越えてふと振り返ったときに見つかる「学び」はどこかにあるものではなく、自分の試行錯誤や周りとの関わりの中で自分自身が作り出すものです。

当然その方法は事前に想定できるものではなく、I社での勤務経験を通してNさんが自分に向き合い続けたことで得られたものでしょう。

I社という会社は、こうした学びを社員任せにすることなく関わり続ける会社です。部署の上司にとどまらずさまざまな人が彼の成長を見守り、真剣に議論をするのです。上司として自分たちがいかに関わるかもまた、常に問い直します。一人ひとりの成長こそが会社の成長であるいう信念があるからこそ、互いの学びと対話を続けて行くことを重視することが出来るのだと思います。

自分が、もしくは部下が「いかに学ぶか」を考えたり介入するということは、会社の規模に関係なく一人ひとりが自分の立場で出来ることです。会社そのものの変革にはもちろんたくさんの要因が絡んできますが、個人としてはどんな経験からも「学ぶ」ことは必ずあります

学校教育の中でもその後の社会生活でも、「いかに学ぶか」を問い続け、学びの創造性を広げていくことが、一人ひとりの「働く」と「生きる」を豊かにする未来につながっていくと私は思っています。

 そんなことを考えながらも 、新学期に入ってまた登園をしぶる息子と一緒に私も「学ぶ」ことばかりの毎日です・笑。

 

 

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