「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワークライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

書くことへの信念は、もう揺るがない

今日の材料:フィードバック、フィードフォワード、研究の価値、ブログの価値

前回の記事【「物語」の力をさらに問う―多様性を創造力にするために― 】には、たくさんのコメント&ブクマコメントを頂き、本当にありがとうございました。

私はブログ執筆を通してもっともっと書く力をつけたいと強く思っているので、頂いたコメント一つひとつが本当に宝です。

書く力は書くことでしか身に付きません。みなさんから頂くコメントは私が書いたことがどのように伝わっているのかを教えてくれる、この上なく貴重なフィードバックなのです。

そういえば、最近は「フィードバック」ではなく「フィードフォワード」という言葉が使われているようですが、ご存じですか。

ざっくり説明すると、(あえて対比した場合)「フィードバック」は過去志向で私見の色彩が強く、問題や欠点の指摘が中心。それに対して「フィードフォワード」は未来志向で広い視野からの意見であり、解決への展望が臨めるものだそうです。

 

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back (後方)から forward (前方)へ―言葉のあやからこれまでの伝え方を見直そう、という試みは理解できるのですが、私個人としてはどうしてもこういうノウハウ的な説明には疑問を感じてしまいます。

上の記事では上司と部下の関係性を基準に描かれているのですが、上司は「前向きなアドバイス」のつもりでも、部下からしたら「後ろ向きな指摘」と受け止められることが多々ありますから。

結局、関係性によって同じ内容でも前向きにも後ろ向きにもなりうるのです。いくら内容的に「フィードフォワード」を意識しても、伝わらなければ意味はありません。上司は伝える内容だけでなく、部下との関係性、そこでの自分自身の在り方も問い直す必要があるのではないでしょうか。

そして伝えられる部下側もまた、ただ受け身ではいけないと思うのです。

まずはどんな指摘も「フィードフォワード」として受け取る努力が必要だと思います。問題や欠点の指摘であっても、自分の受け止め方次第で未来志向にすることは可能だからです。自分がやるべきことに信念を持っていれば、意識的にこうした受け止め方をすることは出来るはずです。

自分自身と向き合い信念を持った上で、パワー関係の中でどうしても信念を貫くことができないのなら、そのときは別の関係性を探すことも出来るでしょう。いずれにしても譲れないものを持っているかどうかで、物事の受け止め方は変わってきます

私はこれまでの人生の中で迷ってばかりいたので、上司だけでなく他人の評価にずいぶん振り回されました。でも今は、書くことに信念を持っています。だからどんな指摘も「フィードフォワード」に出来る自信があります。

もちろん、みなさんから頂くコメントは努力を要せずとも勇気づけられるものばかりで、誰から見ても確実に「フィードフォワード」です。そして鋭い「気付き」を与えてくださるので、一つひとつに大きくうなずいてしまうのです。

 

 

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前回の記事で、私は以下のようなことを書きました。

 

私がたくさんの論文を読んだ中で心に残ったのは、分析や検証方法の正確性とか発見事実の希少性を訴えるものより、研究の目的や見出されたことに対する執筆者の想いが伝わってくるようなものでした。

頂いたコメントは、この内容に共感してくださったものがとても多かったような気がします。例えばいつもコメントをくださる、さえわたるさんはこう書いてくださいました。

難しい研究論文であっても、書いたのは人間。
ドライな実証性が求められる反面、やはりそこにはヒトのココロが宿っているものだと感じています。
真実を追究する情熱とでもいいますか

 

「真実を追求する情熱」―私はこの言葉でさらに自分の「気付き」を深めました。

私が研究をしていて感じた違和感はまさに、この「情熱」が置き去りにされていたことだったのです。研究方法の適切さや研究の貢献ばかりを強調しなければならないことに、どうしても馴染めませんでした。社会科学を学ぶことは、人が生きやすくなるきっかけや、そのヒントを見つけるものだ―私が持っていたこの情熱は、大学院で求められる研究者としての成功と明らかにかけ離れていました。

ところが、この「研究」とは何かということさえ、関係性の中で揺れ動くものだということに後から気付きました。

ips細胞研究で有名な京都大学山中伸弥教授のエピソードです。山中教授は留学中に指導を受けた先生から「君のビジョンはなんだ」と聞かれた時、「妻子を連れてアメリカに来ているのは、いい研究をして、論文をいっぱい書いて、研究費をいっぱい貰って偉くなりたいからです。教授になりたいんです」と答えたそうです。

それに対してその先生は「それはビジョンじゃない。ビジョンを達成するための手段だろう」と言いました。

それを聞いて山中教授は、「いまの医学では治せない患者を治せるとしたら、それは研究。だから研究者になろうと思った」ということを思い出したそうです。

山中伸弥が研究者として成功した秘訣——「VW」のモットー|人間力・仕事力を高めるWEB chichi|致知出版社より

研究者としてのビジョンは、やっぱり「真実を追求しようとする情熱」の中にあるのです。

ある関係性の中で限定的な「研究」の在り方に、私自身も惑わされていました。山中教授とは比べ物にもならないくらい小さなものかもしれないけど、きっと私にも出来る「研究」があるはず今はそう思っています

でもこうして考えてみると、ブログの価値と研究の価値は似ているかもしれません。

自分の気付きを追求すること、そしてそれを伝えることが、誰かの気付きにつながるんですから。

ここでブログを書き続けながら、来年は論文も書くと私は心に決めています。 

 

 

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「物語」の力をさらに問う―多様性を創造力にするために―

今日の材料:物語、知恵を集める、創造力

少し前に「理屈よりも深い納得を生む物語の力」という記事を書いたのですが、自分史上最高のブックマーク数を頂きました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

物語が持つ力に共感される方が多いんだな、ということに改めて私自身が深く納得しました。

こう書いておいてなんですが実は私、読み物の中でもフィクションはあまり得意ではありません。文字を見ても全く情景が浮かんでこないのです(苦笑)。国語のテストでも説明文とか論説文は得意なのに、小説とか随筆になるとさっぱりわかりませんでした。読むのが苦手なので、もちろん書くことも出来ません。

そうこうしているうちに大学院で文章を書き始めてからは、いかに論理的に組み立てるか、ということをたくさん考えるようになりました。(実際にそう教えられますし。)

でも論理的な文章でも相手に伝わらない、ということが多々あることに気付くようになりました。もちろん、私の力不足です。ただある時、読み手に何かを伝えるために考えるべきところは、違うところにあるのではないかと思うようになったのです。

論理性は、ある意味では客観的な説明と言い換えることが出来るかもしれません。でも「客観的」なんて、本来あり得ないのです。この記事でも書きましたが、人というのはどう頑張っても、自分自身の視点から逃れて物事を見ることは出来ません。興味も知識も異なるより多くの人に何かを伝えたいと思ったとき、論理性というのは数多くある基準の一つに過ぎないのです。

私は研究者に向かないわけですね(苦笑)。

そんな私がたくさんの論文を読んだ中で心に残ったのは、分析や検証方法の正確性とか発見事実の希少性を訴えるものより、研究の目的や見出されたことに対する執筆者の想いが伝わってくるようなものでした。

そしてその想いは、筋書きを持つ物語として自然に沁み込んできたのです。想像力のない私のような人間でもやはり、ストーリーの要素を持つ文章にひかれていきました。

より多くの人の心を動かす物語、それは現代社会で、もっと多くの場でその力を発揮するものなのではないでしょうか。

 

 

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単一民族国家と言われてきた日本ですが、時代の変化と共に多様性はますます増しています。まだまだ多数派が生きやすいものの、「多様性が創造力を生む」といった潜在的可能性も、あちこちで叫ばれるようになりました。

でも実際には、さまざまな志向や経験を持つ人たちの知恵を集めて一つのものを創り上げるということは、言うほど簡単なことではありません

例えばいろいろな住民が住んでいる地域コミュニティ、必ずしも目的意識が共有されていないグループや組織などでそれを実現するのは、本当に難しいことです。その難しさを経験したことがある人は、たくさんいるでしょう。

そこで一つ提案です。こうした場で、物語を創ってみるというのはどうでしょう。

初めから誰もが納得するアイディアを見つけ出すより、参加する人が楽しみながら一つのものを創り上げるプロセスを共有することが、共感を生み出すきっかけになるかもしれません。そういう意味で、試す価値があるように思えるのです。

例えばあるコミュニティやグループ、組織の過去から現在までの歴史とか、参加者が共有する出来事をみんなでストーリー化してみるところから始めてみてはいかがでしょう。

そのストーリーが、もともとの目的に向かって取り組む良いきっかけになるかもしれません。あるいはそのストーリーそのものが、目的につながる可能性もがあると思います。

ストーリーの要素は様々です。出会いや別れ、笑いや怒り、ハッピーエンドや意外な展開―物語をどう面白くできるかを考えることは、結論をださなければならない話合いよりずっと心のハードルを下げるものだと思うのです。

※ここまで書いておいてなんですが、もしかしたらそういう方法が既にあるかもしれませんね。改めてじっくり調べて見つかったら、記事を更新します。

実は論理的な思考が自分を支配していた頃、私自身もチーム活動があまり得意ではありませんでした。今思えば若く未熟ですが、まとまらない方向に話を持って行ったりいくら説明しても意図を理解してくれない人がいると、最初から最後まで一人でやった方がましだと良く思ったものです。

でも今は、結論を出すことよりも一人ひとりの想いやアイディアをじっくり聞くことの方が大事だと思うようになりました。

もちろん、期限がある仕事ではそういう訳にはいきません。「そもそも論・再考」と言う記事でも書きましたが、時と場合を見極めることは絶対に必要です。

でも今のように複雑な社会の中で意味を持つアイディアは、単一的な物の見方からは絶対に出て来ないでしょう。多くの人の知恵を集めるということに、私たちは今まで以上に注力する必要があると思うのです。

そしてその時、物語はきっと想像以上にその力を発揮するはずです。

私自身これからもっとその経験を増やし、それを改めて発信していきたいと思っています。

 

 

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多くの人が変わるには、多様なきっかけが必要だ

今日の材料:気付き、きっかけ、自分を変える、多様性

私はブログに何を書くかに日々頭を巡らせているものの、思い浮かんだことをどう筋書きにするかを決めるのに時間がかかり、なかなか更新頻度が上がりません。

でも読むのは好きなので、毎日いろいろなブログを訪問しています。

当たり前ですが、みなさんそれぞれに異なる想いや情報を発信されています。そこで得られるたくさんの気付きといったら!ブログを書き始める前とは日常的に見える世界がずいぶんと変わりました。

この「気付き」は程度の差こそあれど、人が変わるきっかけになるものだと私は思っています。変わることーそれをこれまでとは違う考え方に納得することと考えるなら、それに先行してまずこの「気付き」が必要です。

私は前回の記事で、物語は理屈より深い納得を生み出すということを書きました。まさに人生は自分探しの物語―どうやって気付き、何に納得をしたのかということに、全ての人が当てはまる合理的な説明はありません。

同じ経験をしてもみんなが同じように感じるわけではないし、同じ人が同じ経験をしても、それが人生のどのステージだったかで全く違うものになる―結局、何が自分を変えるきっかけになるのかは、それぞれの人生のストーリーの中でしか説明できないのです。

そう考えると、人の考えや行動を変えることを目的とする場(例えば自己啓発セミナーや社員研修など)で、全ての人が効果を得るということは非常に難しいものです。全ての人に特定の知識や情報を与えることは出来ても、全ての人にとっての「気付き」につながるきっかけを与えるのは、不可能に近いからです。

そしてそれは、教育全般に言えることです。

もちろん、世の中には「カリスマ講師」と呼ばれるような、素晴らしい講師がたくさんいるのは承知しています。でも、そういう講師に教えられるだけで勉強ができるようになるわけではありません。その理由もやはり、このきっかけの多様性が根底にあるからではないでしょうか。

特定の知識や情報、もしくはカリスマ講師だけじゃない。多くの人が変わるためには、それだけ多様なきっかけが必要なのです。

 

 

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私が知っているある会社の社長は、かつて指示待ちで自分からは動けない社員ばかりの会社を変えたいと思い、様々な知識やノウハウを集めて実践しました。

でもどれもうまく行かずに自分と会社に向き合ったとき、自分は目の前の現実ではなく「一般的に言われるような良い会社」を思い描いていただけだと気付きました。

それからその社長は既存の方法を全てやめ、対話をするようになりました。まずは社外の他の経営者の人たちとの対話を通して、経営者としての自分の在り方に気付き、そして社内の対話で、自分とは見方の異なる社員の在り方に気付いたのです。

その後、その社長は社員たちが変わるためのきっかけづくりを始めました。

ある時はオフサイトな対話の場づくり、ある時は業務とは異なるプロジェクトチームづくり。その行動の背景にある自分の気持ちをブログや朝礼で常に発信するだけでなく、社員にも会社や自分のことを語る「自分語り」の場を作り、それを発信することを促しました。

でも、そこに決まりきった方法はないのです。常にその場その場で巻き込む社員と向き合い、彼ら彼女らが変わるきっかけとなるように考え抜いて、いろいろな方法を試みたのです。

そうしているうちに、一人、また一人と自分や会社に対する考え方を変える社員が出てきました。5年、10年と続けて行くと、今度はこうした社員が周りに「気付き」を与える側になっていきます。こうして多様なきっかけがアメーバ式に増えて行くうちに、この会社は自分で考えて動く社員がたくさん育つ会社となりました。

今、大きく変わった会社を見て、たくさんの人が社長に「どうやって会社を変えたのか」と聞いてきます。でも、その「どうやって」の答えに納得できる人は少ないのです。一人一人の社員が変わるきっかけは、それぞれに違うのですから。

そして業績とは全く関わらないことに十数年も力を入れてきた間、社長がやってきたことをむしろ愚かなことと思っていた人もいたのです。特定の知識やノウハウではなく、ただ目の前の現実に向き合って行動してきたことは、他の文脈で方法だけ真似できるものではありません

恐らくこの社長にとって最初の「気付き」は、誰が何と言おうと、どれだけ時間がかかろうと、何のお手本もない自分の方法で社員を変える努力をし続ける決意をするきっかけとなったのでしょう。

その長年の努力の継続が、多くの社員が変わる多様なきっかけを生み出したのです。

実はこの会社との出会いこそが私にとっての「気付き」であり、「働く」とは何か、そして「生きる」とは何かを問い直す大きなきっかけとなりました。

そして他のたくさんのブロガーさんたちがそうであるように、自分の「気付き」を読んでもらうことで誰かの何かを変えるきっかけとなればと思い、このブログを書くようになりました。

もちろん、それは今これを読んでいるあなたのきっかけになるかもしれないし、ならないかもしれません。でも、ここにはたくさんのブログがあります。多様なブログの存在は、多様なきっかけを与えてくれるものだと思います。

改めて、誰もが自分の「気付き」を発信できるブログという場、本当にすごいことだとと感じます。

ブログというシステムを作った人に花束を贈りたいです。 

 

 

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理屈より深い納得を生み出す「物語」の力

今日の材料:物語、納得、主観

前回の記事で、「ナラティヴ・セラピー」について触れました。

そこでの「ナラティヴ」とは「語り、物語」のことです。

私が書いたのは、自分について語ることをきっかけに、「当たり前で動かしがたい」と思っていた現実が実はある関係性の中での限定的なものでしかない、ということに気付くということ。

その経験を自ら語り直すことによって、何も変わっていないはずの環境が全く違うものになる、ということでした。

「実際にはそんな単純にいかない!」と言われちゃうかな、と思ったのですが、頂いたコメントを見ていると、こうした経験は意外と多いのかもしれない、と思い直しました。

この「物語」というのは、実は合理的な説明よりずっと物事への納得を生み出すものだ、という考え方があります。

「物語的現実」とか「物語的自己」とかそんな言葉で表現されるのですが、それは原因と結果という明確な因果関係ではなく、自分が経験することで初めて物語のように筋道が立てられるということです。

「主観的」と言ってしまえばそれまでですが、子供の頃から聞いてきたたくさんの物語が多くの人にしっくりくるように、実は情緒や感情の中にこそ深い納得があります。むしろ客観的で理路整然とした説明以上に、人の心に刻まれるものなのかもしれません。

 

 

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子供にもわかる物語の説得力―これを最近、自分でも思わぬところで経験しました。

私の子供は6歳のやんちゃ男児。当然、毎日のように悪いことをしては叱られる年頃です。

「ゴミはゴミ箱に捨てないと家がゴミだらけになるでしょ!」とか、「使ったものは元に戻して!」と理屈を言ったところで、「は~い」と気のない返事・・。

でもある時、持っていたおもちゃを容赦なく床に落とした息子に、おもちゃが言ったように「痛い!ひどい!僕たち友達じゃなかったの!?」と言ってみたら、思った以上に動揺した息子が「もうしないから・・」と半泣きに。

何度も使える手ではないとは思うのですが(笑)、「こうだからこう」という理屈よりもストレートに心に響くんだろうな、とこちらも納得してしまいました。

ちなみに「自分探し」がメインテーマのこのブログ。例えば就活で求められる自己PRのように、過去の出来事から自分が誇れることを見つけ出すことをテーマとした記事を、以前書きました。

自分探しーありきたりな出来事こそが宝ー」、「自分探し②―ネガティブな経験だって宝― 」といったものです。

こういう経験を紐解いていく時、この「物語」という視点が一つのヒントになるのかな、と思います。

例えば上の一つ目の記事では、あるキャリアカウンセラーの方が多くの新卒者を面接した中で記憶に残っているのは、「ホノルルマラソン」の話ではなく、「親友とケンカしてどうやって仲直りしたか」という話だった、ということを書きました。

自分が今でも鮮明に思い出せる、忘れられない出来事―それは、どうしてそこまで自分の心を動かしたのか。原因と結果のような客観的な条件ではなく、ただ自分の物語として語ってみることで、自分にとっても聞く人にとっても納得を生み出すストーリーが出来るかもしれません。          

 秋も深まる夜長に、昔の出来事をストーリーにしてみませんか。

  

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「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある

今日の材料:自分、他人、関係性、気付き、語り直し

ブログの投稿を積み重ねていく中で、最近は記事にいろいろなコメントを頂けるようになりました。何か新たな思考が生まれるような気がして、対話の楽しさをますます実感しております。

前回の記事でも「自分らしさ」や「自分探し」について、塾パパさんからこんなコメントを頂きました。

他人がいるから自分を認識できるのかもしれません。他人がいなければ自分を認識できないかもしれません。もし世界に自分ひとりしか人間がいなかったら自我は芽生えないのではと考えてしまいます。  

なるほど!確かに、自分を認識する上で他人という存在はなくてはならないものですよね。

実は前回も引用した「”私は誰か”は自分だけでは決められない」という記事の中で、私は「相手」のことを2つの視点から書きました。

一つは「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものということ。

もう一つは、「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているということです。

後者については、なんとなく想像できるのではないかと思います。他人は自分を写す鏡。「あなたって〇〇だよね」と言われることほど、自分自身を認識する上で強く印象に残ることは、なかなかありません。

では、前者はどうでしょう。前回はブログにプロフィールをどう書くか、という話をしたのですが、今日はもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

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「自分とは何者か」を考える上で関係性に焦点を当てるというのは、伝統的な自己分析の方法、いわゆる「精神分析」とは一線を画する考え方です。

 精神分析療法は、良く知られているようにいわゆる無意識の抑圧を解放することによって、問題を解決しようとします。ざっくり言うならば、さまざまな環境要因によって封じ込められていた「本当の自分」を発見し、それを受け入れることによって、葛藤を解消しようとするものです。

それに対して、最近ではナラティブ・セラピーという療法をよく耳にします。【※『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ 』野口裕二著(医学書院)などを参考にしています。】そこでは問題を自分の中にあるのではなく、関係性によって築かれたものとして一度外在化します。さらにそれを「語り直す」ことによって、問題そのものへの認識を変えるというものです

抽象的なので具体例を挙げてみましょう。

 

新入社員のA氏は、職場で高圧的な物言いをする上司の下で働いているうちに、「我慢するのが会社員」という認識を持つようになった。悶々と毎日を過ごしていたある日、上司とは別の管理職B氏から会社に対する本音を言ってほしいと言われた。そこでA氏が差しさわりのないことしか言わずにいると、B氏は「そうじゃない」と言い、B氏自身が自分の不満を洗いざらい話し始めた。驚きつつもそれなら、とA氏も自分自身の不満もさらけ出した。その経験がきっかけとなり、A氏は自身の「我慢するのが会社員」という感覚を変化させ、やがて上司にも言いたいことを言えるようになった。

 

実はこれ、実際に聞いた話を少しだけアレンジしたものです。A氏の「我慢するのが会社員」という自己認識は、上司との関係性の中で築かれたことは間違いありません。でも、それが当たり前の日常となってしまうと、いつの間にかそのことは動かしがたい現実となってしまうのです。

でもA氏はB氏との対話の中で、その現実を語ること(外在化すること)によって、それが上司との関係性の中で築かれた限定的なものでしかないと気付き、それとは違う「本音を話せる」関係性を見つけ出します。

A氏はこれをきっかけに「我慢するのが会社員」という自己認識を語り直します。上司の高圧的な態度という環境は全く変わっていないのですが、A氏にとって自分の行動を抑制していた問題が問題でなくなり、言いたいことはきちんと言うという新たな自分を築いたのです。

精神分析が「本当の自分」を発見し、それを解放するという自分ベースの方法であるのに対し、ナラティヴ・セラピーは関係性に焦点を当てた「気付きー語り直し」という対話ベースの方法です。

実際にはこんな単純に行かないよ!という声が聞こえてきそうです。でも人と人との関係性の力というのは思った以上に大きく、時に動かしがたい現実として自分を縛りつけてしまうということは、往々にしてよくあるように思えます。

自分とは一体何なのか、と感じた時、一度この「気付きー語り直し」という対話ベースの方法を試してみてはいかがでしょうか。

もし環境が変えられなかったとしても、自分の認識が変わることで思わぬ変化が起こるかもしれません。

 

 

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「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由

今日の材料:自分らしさ、自分探し、本当の自分、問い、気付き

このブログの中で「自分らしさ」や「自分探し」は重要なカテゴリーであり、中心となるテーマです。でもネット上でいろいろ見ていると、嫌われることも多々ある言葉です。

日々の生活の中で我慢し、押し込めている「本当の自分」を見つけよう、という考え方に違和感を感じる―「本当の自分」って何?そもそもそんなもの自分でわかるはずないし、わかる必要があるの?と感じられることがその理由の中心にあるようです。

ごもっともだと思います。

「本当の自分」というある種の決定論的な答えが「自分らしさ」であり、その答えを見つけることが「自分探し」ととらえるなら、私もおそらく馴染めないでしょう。

私は以前、「”私が誰か”は私だけでは決められない」という記事の中で、こんなことを書きました。

「自分探し」は、

自分の心の中を必死に覗こうとすることではなく、他の人との関わりの中で自分が何を感じ、どう行動してきたかを見つめ直すこと

そして

 

自分のストーリーは常に進行中 

ということも。

そこに、「本当の自分」というゆるぎない答えはないと思っています。

今ある関係性の中で自分自身を振り返ること―そこでの発見がこれからほんの少しでも生きやすくなるヒントとなるなら、そこにこそ大きな意義があると感じています。

 

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私が長く付き合っているある友達が、「自分がないのが自分らしい」と言っていたことがありました。

彼女は今、若い頃に思い描いていた姿とは違う人生を生きていると感じています。新たな家族と年を重ねて過ごしてきた中で、新たな関係性と価値観を受け入れているのです。

人によっては「本当に幸せなの?」と感じる人もいるかもしれない―でもいろいろ悩んだ過程を経て今の彼女は清々しく、それが自分らしいと言っています。

またネット記事で読んだある人は、一度自分や周りが「自分らしさ」を定義してしまったばかりに、そうでない自分を許せなくなってしまったと語っています。

そしてそのことに気付き、今の自分にとって大切なことは何かをもう一度考え直した時、初めてその「自分らしさ」に苦しめられていたことに気付いたそうです。

どちらも考え抜いた末に今の道を選んだ軌跡はやはり「自分探し」であったけど、そこに特定の道筋はなかったのではないでしょうか。

問いを続けることが「自分探し」であり、そこで見つかる小さな気付きの積み重ねが「自分らしさ」だと考えることで、これまでとは違う光が当たると私は思っています。

そう願い、私は自分自身への問いと気付きをこのブログを書いてきました。

もしご興味があれば、ぜひこのブログのカテゴリ―の「自分探し」や「自分らしさ」をのぞいていただければ幸いです。 

ただこういう言葉を嫌うという人は、それだけ自分に向き合ってきた人だと私は思うのです。

そういう人たちのストーリーと、そこでの「問い」や「気付き」の中にもまた、大切な発見がたくさんあると思います。

 

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人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ

今日の材料:人間関係、網の目、結び目、主体性

インターネットが普及し、不特定多数の人々が情報を受発信できるようになってから、私たちの情報に対するとらえ方は大きく変化しました。

ネット(網の目)とはよく名付けたもので、無数の網が絡まり合い、複雑な構造を織りなしています。この記事でも書きましたが、何かに対する反論コメントがモラルを問われぬままに大勢の影響力を持つようになったのも、ネット社会の構造の力の一つなのかもしれません。

ただSNSに限らず、こうした集団心理は日本社会の根底に常にありました。

いじめがその典型的な事例かもしれません。最近では「教師いじめ」という衝撃的な事件もありましたが、学校だけでなく職場やコミュニティ、親同士の関係性など、集団があるところには必ずある種のパワー関係があり、こうした不具合が起こりがちです。

でもその一方で、大きな喜びを与えてくれる出来事もまた、人との関係性の中で起こります。誰にでもこうした経験が一つ二つ、もしかしたらそれ以上に記憶にあるのではないでしょうか。

私にも最近、SNS上の関係性を通してとても嬉しい出来事がありました。私のブログを他のブロガーさんが紹介してくださったのです。とても示唆に富む言及でした。

 

satsumaim0.hatenablog.com

 

さつま芋さんは、まえがきに続くご紹介の冒頭で、「毎日ブログを書いていると、何かの巡り合わせで新しいブログとつながりを持つことができる」と書かれていました。

ほんの小さな、偶然のつながりです。実は私もさつま芋さんのブログを読んでいて、物事のとらえ方やブログ観など、共感するものがありました。

それは、広いネット(網の目)の中での小さなノット(結び目)なのかもしれません。

 

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このネットとノットという言葉が、SNSを含めた人間関係の複雑な問題を理解する上で、1つの糸口を持っているような気がします。

この言葉は、教育学博士のユーリア・エンゲストローム氏の著書から拝借しました。

エンゲストローム氏は日々の活動から起こる学習の在り方について、新たな見解を示しています。既存の枠組み(チームや学校、組織など)を越え、ノットによって創発的に広がっていくことこそ、これまでにない新たな学びを引き起こすというものです。

興味がある方はぜひ、『ノットワークする活動理論: チームから結び目へ』(新曜社)をお読み頂ければと思いますが、とても難しい理論で私自身、きちんと理解できているわけではありません。

でも、このネットとノットという言葉が、私の中で「結び目」となりました。

SNSでたくさんの情報が溢れる中、私たちはどうしても人の目を引く情報に引き寄せられてしまいます。それ自体は悪い事ではありません。ただ、一度立ち止まってその情報に対する何が自分にとってのノットなのか、考えてみる必要があると思うのです。

そして勢いで同調したり反論したりするのではなく、まずは自分でそのノットをきつく締めたり緩めたりしながら、一体何が引っかかるのかを熟慮した上で、その考えを表明するべきではないでしょうか。

エンゲストローム氏は結び目によって広がる活動をネットワークならぬ「ノットワーキング」とし、ノットを中心とする主体的な活動と考えています。共感するにしても反対するにしても、しっかりと自分の軸を持つことが必要なのです。

これはSNSに限らず、日々の人間関係にも言えることです。もし今、純粋な興味や共通性を越えた関係性に縛りつけられているなら、あなたにとって何がノットなのかをもう一度よく考えてみてください。

そしてもしそれがただ網の目のしがらみに絡まっているだけならば、ノット以外のことにしがみつく必要はないのではありませんか。

「広く浅く」でも「狭く深く」でもない、この「ネットからノットへ」という人間関係の広げ方が、今私の中で一番しっくり来ています。

  

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