「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

自分は変えられるのか、他人は変えられないのか②

今日の材料:教育、先生、学び、学部ゼミナール、あきらめること

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

前回に引き続き、この言葉が意味することを問い直していきます。

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

このブログでこれまで、教育に関する記事を何度か書いてきました。【未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える】、【新たな学びを生むために、一人ひとりが出来ること 】、そして【知識に価値があるのは、興味という基礎があるからだ 】。

教育という場を通していかに一人ひとりが「自分らしい」学びを見つけることができるのか。そしてこの学びの主体は、「教えられる側」だけでなく「教える側」でもある、ということ。いずれの記事も、そのことが根底にあります。

人は学ぶことによって成長します。そして成長とは、まさに「変わる」こと。そういう意味では、教育というのは自分を変え、他人を変えるプロセスなのかもしれません。

私はある大学の先生と学生のストーリーを聴いて、このことを改めて考える機会をもらいました。

「働く」と「生きる」を考える私にとって重要な出会いがあった昨年末。【今後の自分に向けて、今月を振り返る】という記事で書いた大学教員のY先生とは、今年に入ってからも何度か対話を重ねていました。

そんな中で、私は先生ご自身の運営する学部ゼミナールのすっかりファンになってしまいました。

教育者として、「ここまで・・」と思えるほど自分と向き合うY先生。そしてその先生の下で、社会人顔負けのマネジメント経験をする学生たち。私が思い描く「学びのプロセスの創造」がまさに行われています。

そんなY先生は、海外フィールドワーク(FW)をゼミ1期生から続けてきました。大学と教員が培ってきた経験とネットワークを駆使し、個人では絶対に体験できない学びの機会が提供される貴重なプログラムです。

とはいえ、学生たちの安全を確保し、有機的な学びを結むためには、教員だけでなく学生たち自身が相当の時間と労力を使って取り組む準備プロセスが不可欠。その大変さを何度も経験してきたY先生はある年、一度計画された海外FWを中止する決意をしました。

もともと参加予定だった3年生たちの多くが、個人的な事情で不参加表明をしたことが原因でした。その年は例年とは違う多くの試みが予定されていただけでなく、学部再編によってY先生自身も奔走していました。

海外FW未経験の2年生を中心に進めていくには無理があり、Y先生もモチベーションの低下を正直に認めました。この状態での敢行は不可能と判断して、新規ゼミ生となる2年生に対して中止を表明したのです。

海外FWの意義を熟知し、継続してきたY先生にとっては大きな決断でした。でもY先生は、ご自身の人生観の中で「大切なものをあきらめること」を、意識的に行う必要があると考えていました。

ところが中止宣言後、ある2年生から問い合わせがありました。そしてその学生とやりとりを通して、先生は一度中止宣言をした海外FWを復活させる決意をしました。

確固たる信念を持って教育現場に立つY先生にとって、中止を翻すことは中止宣言をすること以上の覚悟が必要でした。学生からの信頼を失うリスクも背負う覚悟です。それでも、問い合わせてきた学生Mさんの想いに向き合うと決めたのです

 

 

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その時のことを、Y先生はこんなふうに話しています。

 

自分を変えなければいけなかった。ここまで継続性を持ってやってきた海外FWを、自分のスタンスとか指導方針で中止にしたのは自分。それを変えるということは、自分そのものを変えなければいけなかった。だからこそ、復活させる時は「ゼミの威信をかけて」敢行すると宣言。現実的に難しいことを「やってのける」という考えだった。

 

世の中には、教育で最も大事なことは自分の信念を生徒に教え込むことだ、と信じて疑わない先生がいます。確かに、人を導く責任の大きさは計り知れない。それくらい強い意志がなければ、教員は務まらないのかもしれません。

でも私はある経験を通して、「やはり、それは間違っている」と確信しました。それは私自身が「教えられる側」として、「教える側」の立場であった人を強い反面教師として認識した時のことでした。

その時得た教訓として、ある記事でこう書きました。

「私が持っている信念にだって、見失っているものがあるかもしれない。常に自分を問い直し、今大切なことは何かということを考え続けなければいけない。どんな信念にも絶対はない。」

この記事は今は非公開にしています。でも私はこの時、7年間「大切にしていたものをあきらめ」ました。

Y先生のこのストーリーを聴いた時、自分の経験を思い出さずにはいられなかった。そして思いました。「ああ、自分があきらめられる先生もいるんだ・・」と。

そして、問い合わせをしてきた学生Mさんは、決して抗議をしてきたわけではありません。でもY先生は、Mさんの海外FWに対する声にならない声を感じ取り、そのことを丁寧にヒアリングし、最終的に一緒に協力しながら困難を乗り越える決断をしたのです。

学びの大切さより自分の体裁を守ったり、面倒な仕事を増さないことを優先する先生もたくさんいる中で、この人こそ教育者なんだ、と私は思いました

そして、「もし一度あきらめていなかったら、それまでのこだわりを引きずって上手くいかなかったと思う」と自身のあり方を振り返るY先生の言葉にも、心から納得しました。

結果として、Mさんがリーダーとなって準備を進めたこの年の海外FWは、大きな成果を得ました。レポートを見ても、現地の文化、働き方や生き方に対する深い理解と、それに対する自国のあり方を問い直す姿勢がよく伝わり、この経験がその後のゼミ活動の充実にいかに大きな影響を及ぼしたかがわかります。

とはいえ、物事を淡々と進めるタイプのMさん本人が「先生の前で泣きました」と語るほど、準備の苦労は計り知れなかったようです。でも、それまでリーダー経験のなかったMさんは、この経験がいかに大きかったかということ、そして、今も大学生活の中での時間や学びの大半はゼミ活動にあるということを、語ってくれました。

日本の大学の学部ゼミナールは、専門知識を得るという大学の機能とその後の社会活動をつなぐ上で、重要な役割を果たしていると私は思っています。

でもその場をいかに創るかは、やはり教員の技量にかかっています。自分の大切なものをあきらめられる、そして一人の学生の言葉でそんな自分すらも変える覚悟をもつY先生。この先生のゼミでなら、学生たちは必ず「自分らしい」学びを見つけられるでしょう。

Y先生はこの経験を振り返る中で、ふと「問い合わせがあった時点で、海外FWを復活させようと決めていたのかもしれない」と言っていました。

教員の方から中止決定を宣言したことに対して、学生が問い合わせをすることは、なかなかできません。その瞬間に、彼女がいかに真剣に海外FWに取り組む決意を持っていたかを悟り、こういう学生のためにこそ海外FWを行うべき、という自身の信念を再認したのでしょう。

再開の決断は、Y先生とMさん二人のやりとりに中で築き上げられた意志でした。そしてその結果、Y先生とMさん、そしてこの期のゼミ生全員が、意味ある学びのプロセスを創造しました。やはり変化と成長のプロセスを生み出すのは、個人の力ではなく、関係性の力だ、ということを、改めて確信しました。

Y先生の学部ゼミナール(Yゼミ)でどんなことが起きているのか、これから少しずつ紐解き、このブログでも綴っていくつもりです。

 

 

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自分は変えられるのか、他人は変えられないのか①

 今日の材料:自分を変える、他人を変える、社長評価、意図せぬ「問い」

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

カナダ出身の精神科医エリック・バーン氏の有名な言葉です。エリック・バーン氏は自らの心理学理論に基づく心理療法交流分析』を考案した人。『交流分析』は、自分自身、そして自分と他者との交流の仕方を構造的に分析する方法です。心理学の授業やカウンセリング等の資格試験で、必ずといっていいほど紹介されています。

そんなバーン氏のこの言葉、人間関係や生き方などを考える上で、私自身も若い頃からずいぶんと役立ててきました。

でも最近、少し違う思考が芽生えています。それは、「自分」という存在は他人との関係性の中でしかとらえられない、と考えるようになったからだと思います。

そのことは、【「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由 】、【「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある  】という記事でも書いてきました。

もし関係性を問わず揺るぎない「自分」などない、という前提に立つなら、果たして「自分を変える」ことは可能と言い切れるのか。その一方で、関係性という視点に立つならば、自分の影響で「他人を変える」ことは、必ずしも不可能とは言い切れないのではないでしょうか。

そして過去についても、確かに物理的に起こってしまった出来事は変えられません。でも、【自分史を書いてみませんか】という記事でも書いたように、過去はそれを思い出す「今」の自分が創っている部分がとても大きいのです過去は本当に変えられないのでしょうか。

そんなことを考えていた私に最近、過去と関係性を問い直す興味深いストーリーを聴く機会がありました。今回はそのうちの1つをご紹介します。

 

 

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「働く」と「生きる」を考える私の指南役かつパートナーI社のI社長。【多くの人が変わるには、多様なきっかけが必要だ 】という記事で書いたように、20年近く会社の改革を続け、社員たちに気づきと変化のきっかけを与え続けています。余談ですが1年近く前に書いたこの記事、検索で今でも毎日のように読まれているようです。

そんなI社長が改革を始めた時、一方的な改革になってはならないと考えました。そこで社長になってすぐ、無記名で社長評価をしてもらうことを自ら決定したのです。毎年続ける中で、当初はいわゆる「ハネムーン期間」で高い評価を得られたものの、数年後に評価が逆転、支持しない人が半数に上るようになりました。

悩んだ末、I社長は「自分がどう変わるべきか」を部門長たちに相談しました。自分自身の経営行動を見直すための意見が欲しかったのです。でも、その言葉を聞いて評価を見直した部門長たちの反応は、意外なものでした。

これは社長に対する評価ではなく、自分たちが社長の考えや想いを部署の社員たち伝えきれていないことに対する評価なのかもしれない。

社長評価を自分事としてとらえ、自分たちがこの後どうすべきかを考え始めたそうです。その時のことを、I社長はこんなふうに話しています。

予想もしていなかった反応がかえってきたので、驚いたと同時に新たな発見がありました。自分の弱みを見せたことで、それまでとは違った関係性を築けることができたのは、私の人生でいくつかあった大きなターニングポイントの1つです。そのぐらいインパクトの大きい出来事でした。

I社長はこの改革を始める前、一方的な「やらせ」によって社員たちの意識改革に失敗するという苦い経験をしていました。だからこそ、常に社員との関係性を意識しながら、「いかに気づきを与えられるか」を問い続けてきました。

でも、そこまで考える社長であっても、社員から評価を得ることは簡単ではない。経営というのものの厳しさを改めて実感しますが、そんな中で意識された部門長たちとの関係性の変化。そのことが人生の「ターニングポイント」と話すI社長自身にとって、自分の変化を感じる瞬間だったことは間違いないでしょう。

決して意図したわけではないものの、この「助けてほしい」という言葉は、部門長たちを動かす究極の「問い」だったのです。でもこれは、言葉そのものの力ではありません。社長がとことん自分に向き合った上で、発した言葉だったからです。そもそも、自分を評価することを自ら決定できる社長など、この世に一体何人いるでしょうか。

今、I社長は「自分らしい経営ができている」と自信を持って語っています。でもそれは、このストーリーを含めた無数のストーリーの積み重ねでした。この積み重ねの中で今、最初の「苦い経験」すら自分自身の経営行動の原点だった、と感じています。「過去」は違うものとして解釈されるようになったのです。

日常の中で「自分とは何か」に真剣に向き合い、関係性に敏感でいることから生まれた意図せぬ「問い」。そして、それが自分自身や周りの人を変えること。もしかしたらこういう経験、振り返れば、大なり小なり誰にでもあることではないでしょうか。

大事なことは、その経験を振り返り、問い直すことができるかどうかです。省みることができない過去は、変えることはできません。だからこそ、「対話」できる相手を大切にしたり、自ら「対話」の場を切り拓いていくこと。その努力の積み重ねで、初めて過去のある時点から、自分が変わったことに気づけるような気がします。

変化とは、過去を問い直す自らが創り出す産物。そして、その「気づき」が未来を変えていく。そんなふうには、思えませんか。

次回は同じテーマで、違うストーリーをご紹介したいと思います。

 

 

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「心の強さ」は性質ではない

今日の材料:心の強さ、信念、行動、継続

40代も半ばを過ぎ、「書く」ということの中にようやく自分の道を見つけた私。これまでの人生は悩みや迷いばかりでしたが、これからは、それらも全て糧にして「働く」と「生きる」を思いきり楽しみたいです。

でも、歳を重ねてもなお手を焼いている自分の性質があります。それは、気持ちの切り替えが極端に下手だ、ということ。例えば人との関係性で何か納得がいかないことがあると、なかなか先に進めなくなってしまう。心の弱い人間です。

もちろん、そこで自分にとって価値あることにも気付いてきました。【答えは簡単に見つからない方がいい 】や【物事の価値を築くのも、やはり人との関係性だ】、【今、自分にとっての「繋がり」とは何か 】などの記事は全て、経験を問うことで導かれた発見です。

でもこうしたアウトプットも、切り替えなければ出来ません。結局はブログ更新が滞ることの言い訳でもあるのですが、自己コントロールが下手な私は感情に負けず自分を維持できる「心の強さ」を持っている人を尊敬しています。

「働く」と「生きる」を考える私の指南役かつパートナーであるI社の常務Nさんは、まさにそういう人です。多方面にプレッシャーを背負う会社の幹部という立場にありながら、いつも明るい笑顔で楽しい話をしてくれて、周りも笑顔にしてくれるのです。

I社では、これまで多くの社員の方たちにお話を伺ってきました。そのほとんどをアレンジしてくれたNさんは、インタビューの前後に必ずその社員さんの話をしてくれるI社の母のような存在。お話の中にもいつも愛(と笑い!)が溢れているのです。

こんな感じでいつも他の人の話ばかり聞いてきたNさんにある日、ご本人のことをじっくり聞いてみました。そこで改めて、Nさんの強さを感じました。

 

ケンカして言い争いして、勝つ時もあるし、負ける時もある。勝つ時が多ければ多いほど、人が従うけど、自分ではそれは合わないから、常に和睦の精神で話をして、そうすると被害者が少ないし、納得が生まれる。

 

そう語るNさんは、かつてI社の大きな改革が始まった時、反対する人たちからかなり厳しい態度をとられていました。でも、そんな人たちにも毎日笑顔で挨拶をし続け、いつしか「Nくんが言うなら、わかった」と相手の態度が軟化していったのです。

今でも、Nさんからのメールには、どんなに忙しくても「今日良い天気ですね」、「そろそろ桜咲きますね」という言葉が添えられています。やむを得ず断りを入れるときも、決して敵を作らない配慮があります。

Nさんと接したことがある人は誰でも、その笑顔と言葉の力を実感していると思います。

実際には「言うは易し、行うは難し」といえるこうした行動。この「明るさ」を貫こうとすれば、相当に心が強くなければ出来ないでしょう

 

 

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過去の話をしているから言えるけど、矢面にいる時は、そんなにかっこいいもんじゃない。

 

Nさんは言います。確かに、職場の日常というのは仕事の煩雑さや人間関係の複雑さでいつだって混沌としています。出口の見えない長いトンネルのような場所で、いつでも前向きに、心身を安定させて頑張れるものではありません。

Nさんも常に不屈の精神を持っていたかといえば、そうではなかったようです。ちょうど私と同じくらいの年齢の頃、不眠症になってしまったとか。24時間改革に頭を巡らせ、枕元に紙とペンを置かないと怖くなり、心身ともに疲弊してしまった時がありました。

そういう自分の弱さも自覚しながら、どんなに厳しい状況でも「明るさ」を貫いてきたNさんの強さは一体どこからくるのでしょう。

 

やっぱり社長と共に歩むんだって決めたから。説明は出来ないけど、納得できる。決めないと、迷っちゃう。そういう考え方もいいけど、こういう考え方もいい、と。でも決めれば、そこを一つひとつやっていけばいい。

 

そうか、そうなんだ、と心からの納得がありました。 Nさんの明るさは、「単にその場の空気を良くしようとか」、「争いごとを避けよう」といった目先のことではなく、より大きなものを変えて行こうとする信念に基づいているのです。

未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい  】という記事で、私は「本当に人を動かすのは他者の評価ではなく自分の信念だ」と書きましたが、改めてそう思いました。どんなに先の見えない毎日でも、自分が決めたことを信じて行動し続けられるかどうか―「心の強さ」は性質ではなく、行動の継続から生まれてくるのです。

切り替えが下手で、すぐに自己嫌悪に陥る私―でもそんなことはどうでもいいんです。書くと決めたら、とにかく書き続ける。四の五の言わずに、やるべきことをやればいい!今、そんな風に自分に喝を入れます。 

そんなNさんに「個人としては、どんな会社が理想ですか」と聞いてみたら、こんな風に話してくれました。

 

ルールのない会社。社員が全員自立している。「ここまではいい」「ここまではいけない」「ここはこうすべきだ」っていうことが自分で決められる。そういう人が、本当に優秀な人間だと私は思う。今本当に必要なのは、働き方改革じゃなくて、生き方改革だよね。

 

Nさんのイメージの中ではきっと、会社は働く人が四方八方からコントロールされる「箱」ではなく、一人ひとりが自分の人生を生きる「場」なんだな、と感じました。恐らく日本国内の多くの経営者が持つ感覚とは全く異なるものでしょう。

一人ひとりの生き方が会社を作る。だから会社は社員に、「どう生きるか」を考える場を提供する。そんな構図がI社にはあります。Nさんの会社イメージがいつか実現できるとしたら、それはきっとI社でしかないだろうな、と思います。

そして私は、こうして自分が感じたことを出来る限り文章に表すことで、自分らしい「働く」と「生きる」を実現したいと思います。

 

 

 

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今、自分にとっての「繋がり」とは何か

今日の材料:ブログライフ、繋がり、関係性の変化、自分らしさ

久々にブログ活動を再開し、みなさまのブログもお散歩させていただいています。ブログライフを満喫することが出来て、すごく幸せです。

そして改めて、自分にとっての「繋がり」とはどういうことなのかを考える良い機会になっています。

ブログの世界では、自分の興味関心に本当に素直になれるように思えます。【人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ 】で書きましたが、今の私は「広く浅く」でも「狭く深く」でもない、純粋な興味や共通性で繋がることが出来るノットな関係性に心からの納得があるのです。

でも日常を生きていると、思いもよらない出来事で負のスパイラルに陥ってしまうことがあります。人と人との関係性は、自分だけで考えたようにコントロールできるほど単純なものではないですよね。

無意識に相手に期待したりそれを裏切られたり、そこで心が乱れて自分を見失ってしまったり、関係性の構築や自分らしさの追求は、日々の思いもよらない出来事であっさりと揺さぶられます。

ブログから少し離れていて良くわかりました。日々刻々と変わる生活の中で、自分が一体何に揺さぶられているのか、そして自分にとって一番大事なことは何なのか。ブログを読んだり書いたりすることで、そういう自分の心の声にきちんと耳を傾けることが出来るのです。

 

 

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「繋がり」とはちょっと逆説的な話になりますが、意見の相違があるとき、よく「人と意見を切り離す」べきと言われますよね。

私自身も【創造性は意外性から始まる―異なる視点を受け入れてみよう】で書いたように、異なる意見を受け入れることは人生を豊かにしてくれます。でも批判や反論に出会うとつい、私たちは悪い方に判断してしまいます。記事では、その判断を一旦横に置く、留保してみようとも書きました。

判断の留保は、「人と意見を切り離す」ことの第一歩です。

でも 実はこの考え方、意見の相違よりむしろ、一致する場合により意識することが大事なのでは、と最近思うようになりました。

共感できると思った相手ほど、なぜ、どこが、どのように共感できるのか、感情的にならずにじっくり考えることが必要ではないか、と。

感情がもたらす「悪」の判断以上に、「善」の判断の方が関係性の構築に影響を与えることがあるからです。

近すぎる関係性の弊害、適度な距離を保つことの大切さは、良好な人間関係を作る上で頻繁に問われることです。共感できる相手に思った以上に依存してしまい、逆に関係性を悪化させてしまうことは、近しい付き合いの中で頻繁に起こりますよね。

いわゆる「ママ友」関係などでよく語られることですが、「ママ友」に限らず愛憎が表裏一体となることは多く、相手に対する想い入れが大きいほどその反動による感情のもつれ、関係性の悪化は手が付けられなくなってしまいます。

「人と意見を切り分ける」ということは、むしろ共感できる相手にこそ意識した方が、良い関係性の構築や自分らしさの追求につながっていくのかもしれません。

とはいいながらも、関係性に敏感な人ほどそれが上手くいかないことは良くあります。私自身、余計なことを考えすぎて書くことの手が止まってしまうこともしばしばです。

そんな時、純粋に自分の興味関心に向き合えるブログに集中することで、迷子になってしまった自分をちゃんと元いた道に戻すことが出来るような気がします。

ブログの更新が遅い私でも、そう思えるのです。だからブレずに歩き続けているブログ仲間のみなさんは、もっともっとこの「繋がり」をご自身の人生に生かされているんだろうな、と感じています。

 

 

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改めて気付いた、ブログの意味

今日の材料:ブログの意味、繋がり、意識転換、脱力

前回の更新から2ヶ月以上経ってしまいました。みなさま、お元気でしょうか。

この2ヶ月はどうしても集中したいことがあり、ブログに手が付けられませんでした。そもそも更新頻度が低い当ブログですが、書き上げるのに時間はかかるものの思考は常にこの場にありました。全く手を付けられないのはやはり辛かった・・。

改めて自分にとってのブログの意味、日々のル―ティンの継続がもたらす効果を実感しています。

ただ、この期間に一つ気付いたことがありました。どれだけ期間が空いても、私はブログを終わらせることはないだろう、と。

書くことへの信念は、もう揺るがない 】という記事で書いた通り、これからの人生、どんな形であっても書いていくことは絶対にやめないと思います。実はこの2ヶ月も、別の場で書くことに注力していました。

そしてその内容をベースに、これから論文にも挑戦するつもりです。

でも、ブログでみなさんと交流しながら自分の思考を問い直すということには、それとは違う大きな意味があるということに今回気付きました。

というより、この場が研究を含めた様々な自分の発信をより豊かにするものだ、とはっきりわかりました。

 

 

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以前【続けるコツは、結果に振り回されないこと 】という記事で、最初に何を思って始めたのかを心に持ちつつ、日々の自分に向き合っていれば、物事の継続はいつか必ず道を開いていくと書きました。

でもそのプロセスは、たった一人で達成できるものではないのかもしれません。

人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ 】で書いたように、今の私にはブログが広い網の目(ネット)の中で結び目(ノット)を作り、その繋がりが自分の道を進んで行く上でなくてはならないものだ、と感じています。

以前の私だったら、一度期間が空いてしまったらブログを続けられなかったかもしれません。続けるコツは・・なんて記事を書いていた自分が全然続けられていないなんて、情けなさすぎますから(笑)。

でも今は、「やめない限りは継続だ!」と開き直っています。小さなプライドで大切な場を失うわけにはいきませんから。

今、世の中は新型コロナウイルスの感染拡大が再燃し、今後の生活のことを考えると改めて究極の意識転換、パラダイムシフトが必要です。

これまで注力することばかり考えてきた私ですが、これからは上手く脱力もしながら、書き続けていきたいと思います。

改めてまして、宜しくお願いいたします!

 

 

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知識に価値があるのは、興味という基礎があるからだ

今日の材料:知識と興味、家庭学習、9月入学、想像力

新型コロナの影響で外出自粛となり、家族と過ごす時間が増えています。

我が家ではこの4月に息子が小学校に入学しましたが、新型コロナウイルスの感染防止のため、その後すぐに休校となりました。学校に通うことが出来ずに息子はずっと家で過ごしています。

1歳半から保育園に預け、幼稚園でも通常保育だけでなく預かり保育をフル活用してきた私たち親子にとって、毎日一緒にここまで長く過ごすのは赤ちゃんの頃以来です。でも息子はもう赤ちゃんではなく就学児童―在宅生活の中で遊びだけでなく、学習の時間もとらなければなりません。

改めて、子供の学習に親がどう向き合うか、私たちが今考えなければならない大きな課題を身近に感じます。

前回『新型コロナを乗り越えたら、世界はきっと変わる 』という記事で、これまでと同じようにはいかないからこそ、考えられなかった知恵に辿りつくはず、と書きました。忙しさに負けてつい学校任せにしてしまう親にとって、子供の生活面のみならず学習の在り方を考えるために必要な機会なのかもしれません。

外出自粛生活となってから、我が家でも在宅での毎日の過ごし方を試行錯誤してきました。平日は休日と区別するため、学校と同じようにまずは時間を意識することから始めました。1時間目、2時間目、と開始時と終了時にスマホでチャイムを鳴らすようにしています。私はアラームを使っていますが、専用のアプリもあるそうですよ。

一応時間ごとにやることは決めていますが、夢中になっていたら継続したり、逆に早めに切り上げてしまったり、スケジュールはかなりざっくりです。それでも毎日チャイムは鳴らすうちに、いつの間にか1時間目とか2時間目は何時まで、という時間を息子もすっかり覚えました。

ざっくりではあるものの時間を区切って過ごすと、1日にメリハリがついて思った以上に過ごしやすいです。「この時間にこれをやる」ときまっていると、気持ちも切り変わるので1日の終わりの疲労感もずいぶん違います。

とはいえそれは大人の事情で、子供はそうそう思うようには取り組んでくれません。やることを決めていても、やる気がないと文句が出たり違うことをやり出したり・・。読み書きなどの退屈な課題ばかりでなく、息子が好きな工作なども取り入れて楽しめるように考えたり、私も一緒にやったりしています。それでも、6歳男児に日々何かしら意味ある吸収をしてもらおうとすると、すぐに行き詰ってしまいます。

改めて学校という場の大切さを知り、先生方の工夫に感謝せずにはいられません。それと同時に、親もそれなりの工夫が必要だと実感します。

そこで、探究心を持って子供を観察してみました。すると、ある瞬間にカチッとスイッチが切り変わる時があることに気付きました。勉強しているか遊んでいるかということに関わらず、そこに何らかの面白さを発見する瞬間があるのです。

例えば先日、息子が(半ばイヤイヤ)計算の問題を終わらせた後ふと思いついて、「この問題でちょっとお話を作ってみて」と言ってみました。

例えば10+3-5+7であれば、

「アフリカのサバンナにシマウマの群れが10頭いました。そこへ3頭のライオンがやってきて、シマウマが5頭逃げていきました。その後、ハイエナの群れが7頭やってきました。今ここにいる動物は何頭でしょう」

変な問題ですが、動物が大好きな息子の目の奥がキラッと光りました。大喜びでその後、ひたすらお話を作っていました。どうしたらもっと面白い話になるか、といろいろ考えを巡らせたようです。

興味は最大の武器だ、とその時思いました。「やらなければならない」が「やりたい」に変わった瞬間です。

子供は勉強は嫌いだけど、遊ぶことならいつまででもやり続けられる、と私は思っていました。でもずっと家にいると、好きなことをしていてもすぐ飽きてしまって間が持たなくなることがあります。新しい発見があれば夢中になってやり続け、不思議なことにそこには必ずしも最初の好き嫌いは関わらないのです

知らなかったことがわかる、出来なかったことが出来るようになる、そのための知識の価値を大人はある程度知っているので、どうにか子供にそれを教えようとします。でも子供にとっての知識の価値は、興味の上にしか成り立たず、「面白い」と思った瞬間に知りたい、やってみたい、という気持ちが芽生えるのです。その瞬間がいつやってくるかは私にも息子にもわからないので、いろいろ試してみるしかありません。

毎日息子と接していて、そのことを肌で感じました。在宅学習でいろいろなことを吸収させたいという気持ちはありますが、今は何かに夢中になる時間の方が大事なのかもしれない、と切り替えるようになりました。

いずれは興味のあるなしに関わらず学ばなければならないことが増えてきますが、「面白い」ことの楽しさを小さい頃に覚えることは、学習面でも工夫する力や考える力につながるでしょう。

そういう訳で、現在の私の日々の課題は息子が食いついてくる投げかけを考えること。これはこれで、上手くはまるとミッションクリアした気分になってなかなか面白いものです。

 

 

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興味という基礎があるからこそ、知識を得ることに価値を見出せる―それは子供だけではないような気がします。

コロナ禍では家庭学習の在り方を考え直す必要がありますが、周知のようにより大きな教育制度の問題や学校教育にこそ対応が迫られています。

例えば制度的な観点では、最近9月入学のことが大きな話題となっています。今回のコロナ禍を機に今後の学年暦を9月始業にした方が、国際基準に合致するだろうという見方が広がっています。

実は明治維新後の教育改革では、日本も西洋に倣い9月始業が実施されたそうです。その後政府の会計年度が4月始まりになったこと等を理由に、4月始業という日本独自の制度となりました。今とは社会も生活も文化も全く異なる数百年前の制度が継続されているという事実に、改めて驚愕します。

とはいえ、突然制度を変えるということになれば、現場の先生方は混乱するでしょう。こういう場合、どうしても変更に伴う業務の煩雑さの方に目がいってしまいます。

でもより広い視野で想像してみると、少し違う風景も見えてきます。従来から高校や大学の入試は風邪やインフルエンザが最も流行る時期で、保護者も受験生も勉強以外の気遣いがたえません。また学校側にしても、公平性が問われミスが許されない入試実施中に受験生の体調トラブルへの対応となると、さらなる準備が必要となります。

さらに今年度は新型コロナウイルスへの不安も避けられないでしょう。

受験生の運命を左右する入試で季節由来の懸念事項が減ることは、学校側にとっても学生側にとっても大きな利益です。制度改革によってむしろ業務の煩雑さが軽減されることもあるのです。

桜の季節に新しい生活が始まる日本の春は、情緒に溢れています。でも、猛暑を越えて心も体も落ち着きを取り戻す秋にスタートする、新たな日本の秋があっても良いかもしません。実現の可否はとりあえず横に置き、新たな可能性に創造的な目を向けることは決して無駄なことではありません。

そして新たな発見を求めて視野を広げ、想像力をフル回転させてみると、「知りたい」という気持ちも強くなってきます

実は日本の大学の中には、既に秋入学を併用しているところがあります。そこでどんなことが起きているのか。小中学校に関しては、9月入学が一般的な諸外国ではどのような学期編成なのか。従来の日本と違う面白さがどこにあるのか、という視点で物事を見てみることで、吸収できる知識がきっとたくさんあると思います。

「変えなければならない」という視点を、「変えたらどんな面白いことがあるのか」という見方に変えた時、知識は生きたものになり、創造的な力を持ちます。心理学の世界ではよく外発的動機づけ、内発的動機づけとよく言われますが、きっかけが外だろうが内だろうが、知識への意味づけを変えるのは、結局そこに前向きな興味が持てるかどうかということだと思います。

学校再開に関しては現在も、現場の先生方は不安を抱いています。とはいえ、これ以上休校を長引かせることはそれ以上の問題を抱えています。今の状況に関してベストな対応策を考えるためには、義務感ではなく前向きな興味をもって考えていくこと、そしてそれを可能とするために、各機関が協力しながら対話を続けていくことが、まだまだ先の見えない今、ますます必要だと思います。

まさに先ほど、息子の通う小学校から休校延長に対する対応として、5月中は毎週月曜日に校庭で課題の配布と提出のための登校をさせる旨の連絡がきました。先生方もいろいろと考えてくださっているのだと思います。親として出来る限り協力し、家庭学習で気付いたことを先生にお伝えしていきたいと思います。

さて、興味があることは山ほどあるのに、知識を得るための時間と要領がなかなか得られない私。息子と毎日過ごす中で、細切れの時間に集中して文章を書く生活リズムには、まだまだベストな方法は見つかっていませんが、今回もようやく最後までたどり着きました・笑

 

 

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新型コロナを乗り越えたら、世界はきっと変わる

今日の材料:新型コロナウィルス肺炎、日常の問題、工夫と努力

新型コロナウイルス肺炎の流行が世界的な問題となり、日本はこれまで経験したことのないほどの深刻な状況に陥っています。

感染者数が日を追うごとに増えていく中、ご自身やご家族が感染されている方々には心よりお見舞い申し上げます。そして私もそうですが、現時点では感染確認されていなくともいつどこで当事者となるのかわからない状況には、誰もが大きな不安を持っています。

中国の湖北省武漢市で、これまで確認されたことのないウイルス性肺炎が流行しているというニュースが広く報じられたのは、今年に入ってからと記憶しています。でも警笛を鳴らす一部の専門家を除いて、新型コロナは対岸の火事でしかありませんでした。

多くの人にとっての身近な問題は2月初め頃、「マスクが手に入らない」といった困りごとから始まりまったのではないでしょうか。当初は中国人観光客に批判が集まるといった局地的な話題に過ぎませんでしたが、日が経つにつれてその深刻さが増し、より日常を揺るがすことが起こるようになりました。

我が家ではこの春に息子が幼稚園を卒園しましたが、3月に入って幼稚園は休園になり、親子行事や謝恩会を含め、卒園にむけて予定されていた全体イベントは全て中止に。卒園式も少人数で保育証書を頂くという縮小されたものになりました。

4月に入って感染者数が急激に増え、重症化したり命を落とす方もごく少数ではなくなり事態が悪化していくと、医療崩壊を懸念して感染拡大地域を対象に緊急事態宣言が発令されました。我が家の居住区でも小学校の入学式は行われたものの、その後すぐに休校となりました。

気付けば、中国や初期にその影響を受け心配されていた韓国を大きく上回る数の感染者数、死者数を記録する欧米各国に続き、日本でも大流行が起こってしまいました。

通勤や通学、買い物や病院に行く、友達との食事やおしゃべり―ごく当たり前に出来たことが今は出来ません。こんな状況、つい数ヶ月前までは誰が予想出来たでしょうか。

未曾有の出来事―それは私たちに、これまで考えてこなかったことに向き合うことを強いています。というのも、今回の新型コロナウイルス流行によって通常の生活が出来なくなってしまった社会には、誰もが納得する「正しい答え」がないからです。

「不要不急の外出を自粛する」、「3密を避ける」ということが現時点で得られる情報と知識を結集して導き出された結論です。でもその要請に従うためには、それぞれの生活圏で様々な問題が生じます。例えばこの春卒業し、入学する学生の皆さんやその保護者の方たちは「なぜこの年にこんなことに・・」と思ったでしょう。その時にしか出来ないこと、その時にしか見られない姿を見ることを諦めなければならない悔しさは、まさに私たち家族も経験したことです。

でも、だからこそ、どうすればいいのかを一人ひとりが考え、工夫して行動する必要があります。そうしなければ事態は悪くなる一方で、これまで当たり前に過ごしてこられた日常は二度と取り戻すことは出来なくなるでしょう。

息子の幼稚園や小学校の教職員の方々は、先例のない事態に戸惑いながらも知恵を出し合い、協力し合いながら、卒園式や入学式を実行するために最善の方法を考えてくださいました。何が正しいのかわからない状況の中で必死に考えて動いてくださっている教育現場の方々には、本当に頭が下がる想いです。

その一方で、現在でも郊外を中心に商店街やスーパーなどが家族連れの人であふれていることや、職場で可能な工夫がなされずに感染の不安を持ちながら働かなければならない人々が多くいることを報じる記事は後を絶ちません。個々の事情はあるでしょうが、自分たちの都合で行動してしまう人々や職場の安全を後回しにしてしまう管理職の人たちは、自分勝手な人というより、考えることや工夫することをしていない、もしくは出来ない人たちと思えてしまいます。

日本では特別措置法に基づく「緊急事態宣言」をもってしても、罰則規定を伴って国民の行動を抑止することは出来ません。行政側はこういう場合にすぐ人権という言葉を使いますが、どうしたら国民の理解と協力を得られるのか、結局そこでも考えることや工夫することが十分になされていないように思えます。

新型コロナウイルスの問題は、例え個人の価値観が多様化する時代となっても全体の利益を追求しなければならない時は必ずあるということ、そしてそういう時に私たちが何を考え、どう動くべきなのかという問いを突き付けているのかもしれません。

 

 

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新型コロナウイルスの流行で、間違いなく生活は不自由になりました。でも、それ以前の生活はどうだったのでしょうか。国の政策のようなマクロの問題にしても身近な人間関係のようなミクロの問題にしても、「変えなければならない」とどこかで気付いていながらも踏み込めないことはたくさんあったように思えます。

今回の新型コロナ問題の対応に関して安倍首相はかなりの批判を受けています。その一方で各都道府県知事の対応への評価は、大きく差が出ているように思えます。もちろん全体の利益を追求しようとすればどんな対応にも批判は必ず出ますし、未曾有の事態であるが故に結果によってはその評価も大きく変わる可能性は否定できません。

でも、現状を吟味して衆知を集め、可能な限り予測に基づいた事前準備とそれに伴う決断をしているのか、それとも目先のことしか考えずに行きあたりばったりの決定をしているのかは、誰の目にもはっきりわかります。それは、平時からの意識や取り組みの違いが大きくものを言います。

個人の行動も同じように言えます。夫婦や家族、友達との関係性にしても、職場の在り方にしても、日常的にそこでの生き方に問題意識を持って考えているのかそうでないのかによって、今の状況に対する対処の仕方には明確な差が出ています。

誰もが他人事ではない、そして世界中どこにも逃げ場がないこの新型コロナ問題は、結局一人ひとりの日頃の在り方をはっきりと見せるもののような気がしてなりません。

先日、絵本作家の五味太郎さんの記事にもこんな風に書かれていました。

こういう時っていつも「早く元に戻ればいい」って言われがちだけど、じゃあ戻ったその当時って本当に充実してたの? 本当にコロナ前に戻りたい?と問うてみたい。

五味太郎さん「コロナ前は安定してた?」不安定との向き合い方

 

はっとさせられました。

確かにいつ感染するかわからないという不安、感染しても病院にかかれないかもしれないという恐怖、そういった問題はコロナ前にはありませんでした。でも、医療現場での医師不足の問題や少子高齢化に伴うさまざまなひずみ、そもそも日本は崩壊寸前ではなかったでしょうか

今、目の前に乗り越えなければならない大きな問題がある時は必死に考えます。でも私たちには本来、普段から必死に考えなければならない問題が山ほどあったのです。『「そもそも」論・再考 』と言う記事で書きましたが、「目の前の問題」はより早く解決しようとする一方で見えない問題になかなか向き合えないのは、人間の性なのかもしれません。

だからこそ、このピンチに頭をたくさん使い、これまで見逃してきた様々な問題に取り組む覚悟を持つべきなのかもしれません。

もしそうすることが出来たなら、新型コロナを乗り越えた時、世界はきっと大きく変わると思います。

最近の報道は新型コロナ問題一色で、どうしても日々の感染者数や死者数の増加、医療崩壊への懸念材料を報じるものに目が行ってしまいます。もちろん、こうした現実をしっかりと受け止める必要はあります。でも目立たないところには、一人ひとりが変わってしまった日常にどう向き合い、いかに工夫と努力が出来るかのヒントになるような記事もたくさんあるのです。

視聴者である私たちがこうしたニュースに興味を持ったり、自ら積極的に発信したりすることもまた、工夫と努力のネットワークを広げていくことつながっていくと思います。

私自身について言えば、新型コロナ問題で幼稚園が3月に休園になって以降、これまでにないほどに子供と過ごす時間が増えました。

当初はどうしたらメリハリのある時間を過ごせるのか悩みましたが、いろいろな情報を参考にして平日は1日の大まかなスケジュールを決めました。試行錯誤しながら、「考える時間」、「楽しむ時間」、「体を動かす時間」などを少しずつ上手くとれるようになってきました。

でも自分自身に関しては、まだまだうまくいっていません。自分にとって重要な文章を書くという作業には、ある程度まとまった時間集中することが必要です。子供の相手をしながら細切れにやるというのは、かなりハードルが高いです。

実はこの記事も、書き始めてからもう何日経ったでしょうか・・。もともと文章を書くのに時間がかかる私ですが、思うように進めることが出来ない自分の管理力の低さにはほとほと情けなくなります。

でも、だからこそ、ここで工夫と努力が必要です。なんとしてもこの状況を、自分なりの方法で乗り切らなければ。でもそれが出来れば、きっとこれからの生活が大きく変わると思います。 

誰もがこれまでと同じようにはいかないからこそ、考えられなかった知恵に辿りつくはず。そしてその知恵こそが、これまでの世界を変えるはずです。

不幸にも感染してしまった方は、少しでも症状が和らぎ、一日も早く回復されますように心よりお祈り申し上げます。

そして感染が確認されていない私たちは、感染拡大を防止するために制限された生活の中でいかに工夫と努力が出来るかを考え、実践していきましょう。

 

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