「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

自分は変えられるのか、他人は変えられないのか②

今日の材料:教育、先生、学び、学部ゼミナール、あきらめること

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

前回に引き続き、この言葉が意味することを問い直していきます。

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

このブログでこれまで、教育に関する記事を何度か書いてきました。【未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える】、【新たな学びを生むために、一人ひとりが出来ること 】、そして【知識に価値があるのは、興味という基礎があるからだ 】。

教育という場を通していかに一人ひとりが「自分らしい」学びを見つけることができるのか。そしてこの学びの主体は、「教えられる側」だけでなく「教える側」でもある、ということ。いずれの記事も、そのことが根底にあります。

人は学ぶことによって成長します。そして成長とは、まさに「変わる」こと。そういう意味では、教育というのは自分を変え、他人を変えるプロセスなのかもしれません。

私はある大学の先生と学生のストーリーを聴いて、このことを改めて考える機会をもらいました。

「働く」と「生きる」を考える私にとって重要な出会いがあった昨年末。【今後の自分に向けて、今月を振り返る】という記事で書いた大学教員のY先生とは、今年に入ってからも何度か対話を重ねていました。

そんな中で、私は先生ご自身の運営する学部ゼミナールのすっかりファンになってしまいました。

教育者として、「ここまで・・」と思えるほど自分と向き合うY先生。そしてその先生の下で、社会人顔負けのマネジメント経験をする学生たち。私が思い描く「学びのプロセスの創造」がまさに行われています。

そんなY先生は、海外フィールドワーク(FW)をゼミ1期生から続けてきました。大学と教員が培ってきた経験とネットワークを駆使し、個人では絶対に体験できない学びの機会が提供される貴重なプログラムです。

とはいえ、学生たちの安全を確保し、有機的な学びを結むためには、教員だけでなく学生たち自身が相当の時間と労力を使って取り組む準備プロセスが不可欠。その大変さを何度も経験してきたY先生はある年、一度計画された海外FWを中止する決意をしました。

もともと参加予定だった3年生たちの多くが、個人的な事情で不参加表明をしたことが原因でした。その年は例年とは違う多くの試みが予定されていただけでなく、学部再編によってY先生自身も奔走していました。

海外FW未経験の2年生を中心に進めていくには無理があり、Y先生もモチベーションの低下を正直に認めました。この状態での敢行は不可能と判断して、新規ゼミ生となる2年生に対して中止を表明したのです。

海外FWの意義を熟知し、継続してきたY先生にとっては大きな決断でした。でもY先生は、ご自身の人生観の中で「大切なものをあきらめること」を、意識的に行う必要があると考えていました。

ところが中止宣言後、ある2年生から問い合わせがありました。そしてその学生とやりとりを通して、先生は一度中止宣言をした海外FWを復活させる決意をしました。

確固たる信念を持って教育現場に立つY先生にとって、中止を翻すことは中止宣言をすること以上の覚悟が必要でした。学生からの信頼を失うリスクも背負う覚悟です。それでも、問い合わせてきた学生Mさんの想いに向き合うと決めたのです

 

 

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その時のことを、Y先生はこんなふうに話しています。

 

自分を変えなければいけなかった。ここまで継続性を持ってやってきた海外FWを、自分のスタンスとか指導方針で中止にしたのは自分。それを変えるということは、自分そのものを変えなければいけなかった。だからこそ、復活させる時は「ゼミの威信をかけて」敢行すると宣言。現実的に難しいことを「やってのける」という考えだった。

 

世の中には、教育で最も大事なことは自分の信念を生徒に教え込むことだ、と信じて疑わない先生がいます。確かに、人を導く責任の大きさは計り知れない。それくらい強い意志がなければ、教員は務まらないのかもしれません。

でも私はある経験を通して、「やはり、それは間違っている」と確信しました。それは私自身が「教えられる側」として、「教える側」の立場であった人を強い反面教師として認識した時のことでした。

その時得た教訓として、ある記事でこう書きました。

「私が持っている信念にだって、見失っているものがあるかもしれない。常に自分を問い直し、今大切なことは何かということを考え続けなければいけない。どんな信念にも絶対はない。」

この記事は今は非公開にしています。でも私はこの時、7年間「大切にしていたものをあきらめ」ました。

Y先生のこのストーリーを聴いた時、自分の経験を思い出さずにはいられなかった。そして思いました。「ああ、自分があきらめられる先生もいるんだ・・」と。

そして、問い合わせをしてきた学生Mさんは、決して抗議をしてきたわけではありません。でもY先生は、Mさんの海外FWに対する声にならない声を感じ取り、そのことを丁寧にヒアリングし、最終的に一緒に協力しながら困難を乗り越える決断をしたのです。

学びの大切さより自分の体裁を守ったり、面倒な仕事を増さないことを優先する先生もたくさんいる中で、この人こそ教育者なんだ、と私は思いました

そして、「もし一度あきらめていなかったら、それまでのこだわりを引きずって上手くいかなかったと思う」と自身のあり方を振り返るY先生の言葉にも、心から納得しました。

結果として、Mさんがリーダーとなって準備を進めたこの年の海外FWは、大きな成果を得ました。レポートを見ても、現地の文化、働き方や生き方に対する深い理解と、それに対する自国のあり方を問い直す姿勢がよく伝わり、この経験がその後のゼミ活動の充実にいかに大きな影響を及ぼしたかがわかります。

とはいえ、物事を淡々と進めるタイプのMさん本人が「先生の前で泣きました」と語るほど、準備の苦労は計り知れなかったようです。でも、それまでリーダー経験のなかったMさんは、この経験がいかに大きかったかということ、そして、今も大学生活の中での時間や学びの大半はゼミ活動にあるということを、語ってくれました。

日本の大学の学部ゼミナールは、専門知識を得るという大学の機能とその後の社会活動をつなぐ上で、重要な役割を果たしていると私は思っています。

でもその場をいかに創るかは、やはり教員の技量にかかっています。自分の大切なものをあきらめられる、そして一人の学生の言葉でそんな自分すらも変える覚悟をもつY先生。この先生のゼミでなら、学生たちは必ず「自分らしい」学びを見つけられるでしょう。

Y先生はこの経験を振り返る中で、ふと「問い合わせがあった時点で、海外FWを復活させようと決めていたのかもしれない」と言っていました。

教員の方から中止決定を宣言したことに対して、学生が問い合わせをすることは、なかなかできません。その瞬間に、彼女がいかに真剣に海外FWに取り組む決意を持っていたかを悟り、こういう学生のためにこそ海外FWを行うべき、という自身の信念を再認したのでしょう。

再開の決断は、Y先生とMさん二人のやりとりに中で築き上げられた意志でした。そしてその結果、Y先生とMさん、そしてこの期のゼミ生全員が、意味ある学びのプロセスを創造しました。やはり変化と成長のプロセスを生み出すのは、個人の力ではなく、関係性の力だ、ということを、改めて確信しました。

Y先生の学部ゼミナール(Yゼミ)でどんなことが起きているのか、これから少しずつ紐解き、このブログでも綴っていくつもりです。

 

 

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