「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える―

今日の材料:学校教育、学びの創造、社会生活、いかに学ぶか

 

40代半ばの私の子供時代、日本経済はまだまだ活発で、高校生になる頃まではいわゆるバブル景気真っ只中でした。大量生産、大量消費経済の中で、物事の標準化や均質化にこそ価値が見出されていた時代です。今思えば、教育カリキュラムもいかに標準的、均質的な知識を身に付けられるかに重きが置かれていたように思えます。

それは学ぶ側の視点ではなく、教える側の視点ともいえるでしょう。子供たち一人ひとりに「何を学んでもらいたいか」より、先生が「何を教えるべきか」の方が明らかに先行しました。だからこそ「何のために勉強をするの?」は、子供の「質問あるある」だったように思えます。

そして、この状況は今も根本的には変わっていないと思います。

確かに、教育カリキュラムの内容は少しずつ変わってきました。私たちの頃にはなかった生活科の新設、さらには自分で学び考える「生きる力」を育むといった文言が、学習指導要領で表現されていることは良く知られています。

でも結局、学校が「知識を伝達する場である」という枠組みはあまり変わっていないように思えます。取捨選択を考えなければ「知識」はネットでいくらでも手に入るこの時代、今こそ学校という場が持つ価値をより深く問うべきと感じます。

最近よく、「協同学習」や「学び合い」という言葉を耳にします。そこでは、知識は一方的に伝達されるものではなく、グループでの課題達成といった実践的な関わりの中で創造的に学ばれると考えられています。

学びの創造性は、学校教育の価値になりうると思います。

ただこうした教育の在り方は、教員の関わり方によって大きな批判の対象となることもあります。その批判の中心にあるのは、「学び」を生徒任せにするという放置の姿勢です。「学び合い」や「協同学習」というなら、教員もまたいかに学びのプロセスに関わるかを「学ぶ」ことが必要です。

ちなみにこうした活動は「アクティブ・ラーニング」とも表現されますが、「アクティブ」となるのは多くの場合生徒であると理解されています。学校を「学びを創造する場」へと変革するなら、教員こそ自らどう関わるべきかを「アクティブ」に学ぶ主体であるはずです。

さらに言うなら、学校だけでなく家庭や地域社会もまた「アクティブ」な学びの主体であるはずです。子供たちの学びのプロセスをいかに創造していくか、そのためにそれぞれがいかに関わり合っていくのか、常に問いを立てて考え続けて行く必要があると思います。

教育の現場ではさまざまな取り組みが試されてはいるものの、こうした関わり合いがうまく機能せずにまだまだ混沌としています。

でも、そのモヤモヤは必要なものだと私は思います。【「そもそも」論・再考】や【「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由 】という記事でも書いているように、「答え」を探すことより考え続けることにこそ意味があるからです。

親として、もしくは今後、学校や地域の中でも何か役割を得ることもあれば、それぞれの立場から「アクティブ」に学び、取り組んでいきたいと思っています。

 

 

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「何を教わるか」より「いかに学ぶか」を考えることは、子供たちが社会に出てからその結果がより顕著に表れるように思えます。

「働く」と「生きる」を思考する私の指南役かつパートナーでもあるI社【☆参照】で先ごろ対話インタビューをしていた時、入社5年目のNさんがこんなお話をしてくださいました。

彼は入社して2年目をピークに、入社説明会で聞いて想像していた仕事とあまりに違うことで、会社を辞めたいとすら思うようになりました。先輩や仲間と日々の対話を通して物事を解決したり改善したり出来ると期待していたのに、自分じゃなくても出来る仕事を日々こなさなければならなかったからです。このまま何十年と働き続ける自分を想像することが出来ませんでした。

悶々としながらも仕事を続けて3年目となり、これまでやってきた工程とは違うある種の「結果が見える」仕事をしていた時、ふと自分の会社が作っている製品に興味を持ち始めました。製品のことを知りたいという気持ちは、自分がその仕事の中で何が出来るかを考える、というところにもつながっていきました。

3年目のその仕事は最初の仕事に比べ、社内で他の部署の人たちとも交流がある仕事でした。彼はその後さらに異動によって今度はお客様とも関わる仕事に携わるようになり、現在は新たなやりがいと課題にも直面しています。でもその多様な関わりの中で、彼は自分がI社の中ですべきこととしっかりと向き合えるようになっていました。

Nさんはこんな風に話しています。

 

最初の3年っていうのは、自分で考えてうちに秘めて、口に出さないだけの時間がただ過ぎていって、それを周りのせいにしていた。最近は思ったことを相談したり口に出したりすることで、周りの人の意見も聞けるようになってきた。自分で思うことを意見しないと周りの意見も聞けないし、自分の考えが間違っているのかあっているのかもわからない。

振り返ったり、周りの意見から自分が学ぶことも多くあるし、自分の中の小さい器ではだめなんだな、と。いろんな角度の意見を聞くことで、自分がやるべきこと、やらなければならないことも見えてくると今は思う。

 

新卒の社員が入社後の一定期間で会社を辞めてしまうという問題は、いろいろな場で耳にします。その理由は様々だとは思うのですが、「いかに学ぶか」に関する経験の少なさが大きく影響しているように思えます。

もちろん、いわゆるブラック企業のような会社で心と体を壊してまで会社を続けるべきではありません。「自分を守る」ということは、働く上で最も重要な判断基準です。ただそれとは違う状況では、「いかに学ぶか」という経験が大きく影響するように思えます。

学校教育の中で「何を教わるか」を重視しすぎると、学ぶ側はやり方さえ知れば必ず「正解」がどこかにあると思うようになります。でもNさんのように、日々のモヤモヤを越えてふと振り返ったときに見つかる「学び」はどこかにあるものではなく、自分の試行錯誤や周りとの関わりの中で自分自身が作り出すものです。

当然その方法は事前に想定できるものではなく、I社での勤務経験を通してNさんが自分に向き合い続けたことで得られたものでしょう。

I社という会社は、こうした学びを社員任せにすることなく関わり続ける会社です。部署の上司にとどまらずさまざまな人が彼の成長を見守り、真剣に議論をするのです。上司として自分たちがいかに関わるかもまた、常に問い直します。一人ひとりの成長こそが会社の成長であるいう信念があるからこそ、互いの学びと対話を続けて行くことを重視することが出来るのだと思います。

自分が、もしくは部下が「いかに学ぶか」を考えたり介入するということは、会社の規模に関係なく一人ひとりが自分の立場で出来ることです。会社そのものの変革にはもちろんたくさんの要因が絡んできますが、個人としてはどんな経験からも「学ぶ」ことは必ずあります

学校教育の中でもその後の社会生活でも、「いかに学ぶか」を問い続け、学びの創造性を広げていくことが、一人ひとりの「働く」と「生きる」を豊かにする未来につながっていくと私は思っています。

 そんなことを考えながらも 、新学期に入ってまた登園をしぶる息子と一緒に私も「学ぶ」ことばかりの毎日です・笑。

 

 

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