「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

一人ひとりの主体性が、持続可能な社会を作る

今日の材料:持続可能な社会、主体性、責任の所在、小さな成功

 

「持続可能な(sustainable) 」という言葉をよく耳にします。

私が初めてこの言葉を聞いたのは15年くらい前と記憶しています。当時在籍していた大学院の授業で、「持続可能な開発のための教育(ESD: Education for Sustainable Development)をテーマに学んだことがありました。それ以降、いろいろな場で出逢うこの「持続可能な」という言葉がとても気になるようになりました。

実際に国連や関連機関からこの言葉が発信されたのはもっとずっと前なのですが、社会の中で関心を集め、より意味のある言葉として定着してからはそれほど長くないのではないかと感じるのです。

言葉というのは生き物です。太古の昔から人々の生活とは無縁に存在するわけではなく、ある社会環境の中で生み出され、人々に使われることによってその意味を確立していきます。

この「持続可能な」も、このままでは持続できなくなるという危機感が本当に高まってからこそ、頻繁に使われその意味を確立してきた言葉です。この危機感は環境保全問題に端を発し、貧困、人権、平和、開発といった広い視野に立って現在と将来のニーズを考える必要性を訴えるものです。

以前【未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい 】という記事の中で、アフガニスタンで殺害されてしまった中村哲医師のことを書きました。彼の支援活動はまさに貧困からの救いと平和への希求が混在するこの地域で、人々の生活を持続可能とする基盤を開発するためのものでした。

中村医師のような行動は、誰もが真似できることではありません。でも私は、「どんなに不確実な状況であっても行動することに必ず意味がある」と言いたくてこの記事を書きました。それ自体は、決して特別なことではないはずです。

むしろ私たちが考えるべきなのは、自分自身の身近な環境をいかに持続可能とするかです。今の世の中、日々の生活の中で「今後どうなってしまうのか」という不安が全くない人は恐らくいないでしょう。その一方で、その問題に向き合い、行動することが出来る人もまた多くはないように思えます。

一人ひとりが身近な環境を変えて行くために主体的に行動することが、社会全体の持続を可能とする未来につながると私は思っています。

 

 

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私たちが持っているそれぞれに異なる経験や知識は、今後も安定した生活を持続していくためにとても重要なものだと思います。一人ひとりが主体的に行動し、その経験や知識を十分に生かすことが出来れば、社会を持続可能とするたくさんの知恵が生まれてくると思うのです。

でもこの主体的な行動は、いろいろな理由によって阻害されてしまいます。例えばその一つに、特に日本社会に顕著な責任の所在を追求しようとする傾向があるような気がします。

一つ例を挙げてみましょう。

人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ】という記事でも紹介した【山住勝広・ユーリア・エンゲストローム編の『ノットワークする活動理論: チームから結び目へ』(新曜社)】(p.41-43)に興味深いエピソードが書かれていました。

それはフィンランドの保健センターのある医者が担当する偏執病(※パラノイアとも言われる妄想性パーソナリティ障害の一種で、不安や恐怖の強い影響を受けるもの)の患者が自宅のドアを開けずに叫んでいた時の、関係者の一連の対処に関するものでした。

関わったのはその担当医の他に患者の後見人、隣人、在宅介護の看護師、地域病院の精神科医、警察官、救急隊員、アパートの管理者でした。そこで、それぞれが持っている情報(例えば後見人が知る患者の生活状況や、担当医が知る健康状態、精神科医が持っている精神病治療に関する知識など)を問題状況の解消のために共有し、最終的に救急隊員や警察が介入して強制的に入院させ治療を受けさせることに成功したというものでした。

普通に読めば、「ふーん、それで?」と思うかもしれませんが、想像してみてください。あなたの身の回りで同じようなことが起こったとき、あなたはどう考えますか。

恐らく私だったら「誰が決定を下すのか」、もっと言えば「誰がその責任を取るのか」ということを考えてしまうと思います。そしてそういう考え方が、自分の主体的な行動を抑制してしまうような気がするのです。

このケースでは、発作を起こしているであろう患者の身の安全と同時に、人権の問題も絡んできます。例えば自分が担当医であった場合、健康状態に問題はなくても精神状態から危険な状況になる場合を考えるでしょう。かといって、個人の生活空間に許可なく立ち入ったり、強制的に入院させるということが法的に問題になる可能性もあるのです。

さまざまな判断基準を複数の人が持っている時、それを総合的に判断できる権限者とは一体誰なのか、その責任の所在が明らかにならずに対応が遅れることは、私たちの日常的な経験からも決して珍しいことではありません

でも、ここで書かれているケースでは意思決定は分散されており、それぞれが自分の立場から主体的に考え、問題状況を解消するという目的を共有して役割を遂行したことで、最終的に適切な対応が出来ました。ここで一人でも、「自分が責任を取りたくないから黙っていよう」という人がいたなら、このプロセスは成立しないのです。

ここまで考えてみて、さらに思うことがあります。

それは、今のような持続可能性が危ぶまれる社会になったのは、このケースのように一人ひとりが主体性を持つことなく、十分な知識や情報を持たぬままに権限を与えられた特定の個人の判断によって、重要な決定が重ねられてきた結果ではないのでしょうか。

そして現在も少子高齢化によって持続可能性が危ぶまれ、さまざまな問題が浮き彫りにされているにもかかわらず、やはりこの「権限を与えられているだけの人間」の判断という状況は変わっていないのではないでしょうか。

その結果、日本の未来はますます混迷を極めています。

一人ひとりが出来ることは確かに小さいかもしれません。でもこの保健センターのケースのように、小さな成功を積み重ねることで、大きな社会を変えて行くことは決して不可能ではないと思います。

まずは声をあげてみるということ、そして身近な問題に対して主体的に関わっていくということを、もっともっと意識していきたいと思っています。

さて、今回が私にとって今年最初の記事となります。私が身近に持続を意識すべきは何よりこのブログです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


 

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