今日の材料:常識を問う、定義、逸脱、身近な人との対話
前回の記事で、誰が決めたのかわからない「常識」や「普通」に縛られてしまうことに警笛を鳴らしました。
でもそれは社会の中で生きていく上で、ある意味では避けられないことです。
誰かと会話する時、自分の物事に対する理解を毎回細かく説明をしていたら、時間がいくらあっても足りません。それが何を意味するのかを考え、名前を付けて定義し、相手と共有する必要があるのです。
でも問題なのは、定義が共有され、「常識」とか「普通」となることで、使う人がその意味をどんどん考えなくなってしまい、定義が一人歩きしてしまうことです。
もっと厄介なのは、一人歩きしてるにも関わらず、その定義がそこから外れる物事を外に押しやってしてしまうことです。
そもそも逸脱というのは、定義づけがなければ起こりません。物事に本質的に備わった意味など、この世にはないのです。
「普通ではないこと」、「常識ではないこと」という逸脱は、社会の中で起こる異常な現象ではなく、人が生活する中で、自分たちで生み出しているものなのです。(社会学の中では「ラベリング」と言われます)
だからこそ、私たちはその意味を問い続けなければならないのではないでしょうか。
あなたやあなたの身近な人は、今の生活に深く関係する物事を、どう定義づけていますか。
「自分」、「家族」、「会社」、「上司」、「仕事」、「女性」、「学校」、「教師」、「親」、「子育て」、「介護」、「高齢化」・・・。
それは、今のあなたにとって本当に意味ある定義でしょうか。
もし、その定義によってあなたが働きづらかったり、生きづらかったりするのなら、定義し直してみませんか。
その意味を、身近な人、大切な人との対話でとことん追求してみてはどうでしょう。
本音を話し合うことで、「常識」や「普通」とは違う定義を共有できるかもしれません。
当然それは、いつどこでも共有出来るものではないでしょう。
「必ず分かり合えなければならない」
この人間関係の定義も、問い直す必要があると私は思います。
でも、例えどんなに時間がかかっても、一人一人がその意味を追求することをやめずにいれば、「常識」や「普通」は少しずつ変わっていくはずです。
だからこそ、自分に向き合い、当たり前と思うことを問い続けていかなければならない。
常識を問い続けることが「常識」になって欲しい、と心から思います。