今日の材料:見えない不安、悩み、常識とは、自分自身を縛ること
以前の記事で、何に対するものなのかわからない不安や不満が最も厄介だ、と書きました。
この見えない不安や不満の正体は、いったい何なのでしょう。
仕事や家族、それを取り巻く人間関係など、日常生活の中での悩みは尽きません。ネット上でも、こうした悩みを語る声をたくさん見つけることが出来ます。
でも悩みを表明できる人は、少なくとも問題の所在とそれに対する自分の不安や不満が自覚できているのです。
でも、悩みを自覚出来ない、その存在を身近な人や自分自身が否定してしまうことがありませんか。
「普通はこうしなければならない」、「常識的にはああしなければならない」という言葉で、心に感じる違和感を封じ込めてしまうことです。
こういう目に見えない力が、一番根深く自分を苦しめているのです。
人の心を支配する力、例えば強者が弱者を搾取したり互いに奪い合おうとする力は、客観的で目に見えるものだと普通は考えます。
だからこそ、歴史上こういう権力に対する抵抗は絶えず起こり、時にこうした権力は滅ぼされることもありました。
でもフランスの哲学者フーコーは、人が自分自身を縛り、自らその支配を体現してしまう規律的な力こそが、最も支配力の強いものだという考えを示しました。
フーコーはパノプティコンという監獄の監視体制を批判的にとらえ、当時の社会の根底にある権力とは何かを説明したのです。
パノプティコンは、大きな窓のついた監視塔をぐるりと取り囲む独房棟を作ることによって、少数の看守で犯罪者たちを常に監視する仕組みになっています。「常に見られている」という人々の感覚が、例え誰からも監視されていなくても、人々を規律的に縛るようになるのです。
やがてこの監獄の仕組みは、病院や学校など、様々な場に拡張されていきます。こうして社会の中で、そもそもの目的(功利的に監視するということ)とは関係ない人たちが、知らず知らずのうちに自分の行動を規制してしまうようになるのです。
一度立ち止まって考えてみませんか。
私たちが日常的に感じる「常識」とか「普通」のこと、それは一体誰がどういう理由で決めたものなのでしょう。
その理由がわからないものであったとしたら、そんなものに縛られる必要があるのでしょうか。
こう書いている私自身、実は子供の頃から真面目で優等生気質の人間でした。自分で自分を追い詰めてしまうことは、今も日常茶飯事です。
だからこそ、常に自問自答するようにしています。
私は今、何に縛られているんだろう。