「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

対話の目的は、分かり合うことじゃない

今日の材料:対話、対話力、関係性の構築

前回の記事で、人間関係の常識としての「必ず分かり合えなければならない」ということを、問い直す必要があると書きました。

むしろ「そもそも分かり合えない」ことを前提とした方が、よほど現実的のような気がします。

では対話とは、何なのでしょう。

「対話が大事だ」ということは最近では頻繁に耳にするようになりました。効果的な対話の方法や対話力を高めるスキルなど、「分かり合うこと」を指南する情報があちこちに溢れています。

もし「分かり合う」ことが目的なら、分かり合えなければ対話は失敗、また相手にわかってもらえなければ、対話力が低いということになります。

本当にそうでしょうか。

この記事でも書きましたが、都度の結果は通過点でしかありません。それと同じように対話をする上で「分かり合える」かどうかは、一つの通過点でしかないと私には思えるのです。

対話は単なる方法ではなく、参加する人たちの納得や、互いの信頼関係を反映するプロセスだからです。

もし対話力というものがあるのなら、それはその場に参加する一人ひとりが自分自身にしっかり向き合い、互いに本音を話せる信頼関係だといえるでしょう。

それは個人ではなく、関係性の力です。

個人のスキルや能力だけでは説明できない、人間関係の在り方そのものなのです。

だからこそ、どんなに真摯な態度で話してたり聞いたりしても、変えられないことだっていくらでもあります。

「それなら初めから対話なんてしない方がいい」と思いますか。

いえ、この関係性を構築するのも、やはり対話なのです。

一人ひとりが都度の結果に惑わされず、自分自身とその関係性に向き合って対話を重ねていくこと-それを時間をかけて辛抱強く続けていくことで初めて、この関係性の土壌を築くことができるのではないでしょうか。

「分かり合うこと」ではなく、継続することそのものに意義を見出すだけでも、対話への意味づけは大きく変わってくるはずです。

そして先ほどの記事では、このようにも書きました。

コツコツと継続し、そのプロセスで自分に起きた変化にも向き合えば、例え最初のゴールとは違っても、納得のいく成果となるはず、と。

どんなに対話を重ねても、関係性を築けない、もしくは変えられない時は、諦めてもいいし、逃げてもいいと私は思います。

でも、対話を続けたことが思わぬ別の関係性を築くこともある。

それもまた対話の力であり、人生の不思議です。

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常識を問い続けよう

今日の材料:常識を問う、定義、逸脱、身近な人との対話

前回の記事で、誰が決めたのかわからない「常識」や「普通」に縛られてしまうことに警笛を鳴らしました。

でもそれは社会の中で生きていく上で、ある意味では避けられないことです。

誰かと会話する時、自分の物事に対する理解を毎回細かく説明をしていたら、時間がいくらあっても足りません。それが何を意味するのかを考え、名前を付けて定義し、相手と共有する必要があるのです。

でも問題なのは、定義が共有され、「常識」とか「普通」となることで、使う人がその意味をどんどん考えなくなってしまい、定義が一人歩きしてしまうことです。

もっと厄介なのは、一人歩きしてるにも関わらず、その定義がそこから外れる物事を外に押しやってしてしまうことです。

そもそも逸脱というのは、定義づけがなければ起こりません。物事に本質的に備わった意味など、この世にはないのです。

「普通ではないこと」、「常識ではないこと」という逸脱は、社会の中で起こる異常な現象ではなく、人が生活する中で、自分たちで生み出しているものなのです。(社会学の中では「ラベリング」と言われます)

だからこそ、私たちはその意味を問い続けなければならないのではないでしょうか。

あなたやあなたの身近な人は、今の生活に深く関係する物事を、どう定義づけていますか。

「自分」、「家族」、「会社」、「上司」、「仕事」、「女性」、「学校」、「教師」、「親」、「子育て」、「介護」、「高齢化」・・・。

それは、今のあなたにとって本当に意味ある定義でしょうか

理屈ではなく感覚的に「なるほど!」と思えるものですか。

もし、その定義によってあなたが働きづらかったり、生きづらかったりするのなら、定義し直してみませんか

その意味を、身近な人、大切な人との対話でとことん追求してみてはどうでしょう。

本音を話し合うことで、「常識」や「普通」とは違う定義を共有できるかもしれません。

当然それは、いつどこでも共有出来るものではないでしょう。

「必ず分かり合えなければならない」

この人間関係の定義も、問い直す必要があると私は思います。

でも、例えどんなに時間がかかっても、一人一人がその意味を追求することをやめずにいれば、「常識」や「普通」は少しずつ変わっていくはずです。

だからこそ、自分に向き合い、当たり前と思うことを問い続けていかなければならない。

常識を問い続けることが「常識」になって欲しい、と心から思います。

 

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何に縛られているんだろう

今日の材料:見えない不安、悩み、常識とは、自分自身を縛ること

以前の記事で、何に対するものなのかわからない不安や不満が最も厄介だ、と書きました。

この見えない不安や不満の正体は、いったい何なのでしょう。

仕事や家族、それを取り巻く人間関係など、日常生活の中での悩みは尽きません。ネット上でも、こうした悩みを語る声をたくさん見つけることが出来ます。

でも悩みを表明できる人は、少なくとも問題の所在とそれに対する自分の不安や不満が自覚できているのです。

でも、悩みを自覚出来ない、その存在を身近な人や自分自身が否定してしまうことがありませんか。

「普通はこうしなければならない」、「常識的にはああしなければならない」という言葉で、心に感じる違和感を封じ込めてしまうことです。

こういう目に見えない力が、一番根深く自分を苦しめているのです。

人の心を支配する力、例えば強者が弱者を搾取したり互いに奪い合おうとする力は、客観的で目に見えるものだと普通は考えます。

だからこそ、歴史上こういう権力に対する抵抗は絶えず起こり、時にこうした権力は滅ぼされることもありました。

でもフランスの哲学者フーコーは、人が自分自身を縛り、自らその支配を体現してしまう規律的な力こそが、最も支配力の強いものだという考えを示しました。

フーコーパノプティコンという監獄の監視体制を批判的にとらえ、当時の社会の根底にある権力とは何かを説明したのです。

パノプティコンは、大きな窓のついた監視塔をぐるりと取り囲む独房棟を作ることによって、少数の看守で犯罪者たちを常に監視する仕組みになっています。「常に見られている」という人々の感覚が、例え誰からも監視されていなくても、人々を規律的に縛るようになるのです。

やがてこの監獄の仕組みは、病院や学校など、様々な場に拡張されていきます。こうして社会の中で、そもそもの目的(功利的に監視するということ)とは関係ない人たちが、知らず知らずのうちに自分の行動を規制してしまうようになるのです。

一度立ち止まって考えてみませんか。

私たちが日常的に感じる「常識」とか「普通」のこと、それは一体誰がどういう理由で決めたものなのでしょう

その理由がわからないものであったとしたら、そんなものに縛られる必要があるのでしょうか。

こう書いている私自身、実は子供の頃から真面目で優等生気質の人間でした。自分で自分を追い詰めてしまうことは、今も日常茶飯事です。

だからこそ、常に自問自答するようにしています。

私は今、何に縛られているんだろう

 

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批判的になろう

今日の材料:批判的になる、自分らしさ、対話

「批判的になろう」と言われて、「そうだ!そうしよう!」と思える人は少ないでしょう。

でも批判的であるということは、決して否定的であるということではありません。

常に物事に疑問を持つ、問いと立てるということです。

例えばこの記事では、ありきたりな出来事の中で自分がどう考えたかを振り返ることが、自分らしさの発見になることを書きました。

またこの記事では、誰かから言われたことを鵜呑みにするのではなく、自分自身が「なるほど!」と思えることを積極的に探すことが、日常を見つめ直すことにつながると書きました。

つまり、批判的になるということはむやみに否定することではなく、自分の軸をしっかり持ち、真摯に他者の言葉に耳を傾けたり自分の経験をとらえなおすということなのです。

こういう態度で他の人と本音をぶつけ合うこと、つまり対話をすることは、決して無駄な争いではないのです。それは創造性という、チームや組織の価値となっていくはずです。

また少し視点を変えると、批判的になることは、これまでマイナスだと思っていたことに対しても違う光を当ててくれます。

老後年齢を重ねることへの懸念だけでなく、見えない不安や不満ネガティブな経験 からですら、意味ある発見が出来るのです。

批判的である、ということは英語で”critical"といいます。

でもこの"critical"には、人生を左右するような重大な意味を持つ、という意味もあるのです。

今のあなたにとって、"critical"なことは何ですか。

今の私にとって、このブログこそが"critical"です。

そしてこの記事は、記念すべき10回目の投稿。これまでの記事をナビゲートしてみました。

若干無理やりでしたでしょうか(笑)。

続けるコツは、結果に振り回されないこと

今日の材料:受験、継続、結果、淡々と

受験シーズンも大詰めを迎えています。悲喜こもごもの季節ですね。

かつて予備校講師を務めていたころ、いろいろな生徒と出会いました。

子どもは「褒められると伸びる」とよく言われますが、必ずしもそうではない。褒め方によっては逆に、心を閉ざしてしまう生徒もいます。

それから模試の結果が良いことが、ときに生徒のモチベーションを下げることがあります。多くの場合、悪い結果は振り返る材料になりますが、良い結果を振り返ることはあまりないからです。

「たまたま」良い結果を出してしまったとき、次の結果が悪いと立ち直れなくなってしまい、集中力が途切れてしまうことがよくあります。

大学受験というのは、自分と向き合う本当に大きな挑戦なんだとあらためて思い知らされました。ものすごい人生の修行です。

そんななか、年に1人か2人くらい出会う飛躍的に伸びる逸材がいました。

そういう生徒はたいてい、都度の結果に振り回されず、淡々と日々の努力を続けることができます。

模試の結果に一喜一憂する多くの生徒たちを横目に見つつ、つねに自分のペースを崩さない。そういう生徒が、必ず最後に自分の納得する成果を出します。

まだ二十歳にも満たないこういう子たちとの出会いに、私は自分の価値観を大きくゆすぶられました。

それは私自身、ものごとが続かない人間だったからです。

 

 

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若いころから仕事や勉強など、興味のあることはいつでもすぐに見つかりました。でも限界が見えてくると、すぐに次のことを探そうとしていました。

「もっと向いていることがあるはず」と思っていた私は結局、逃げていただけ。ただ、結果に振り回されていたのかもしれません。

でも、都度の結果はひとつの通過点でしかない。

自分が最初に何を思って始めたかを心に持っていれば、ものごとの継続はいつか必ず道を拓いていくと、いまは思います。

都度の結果は、都度の目標に導かれる。それは、人生の本当の目的を見つけるための道標ともいえます。

予備校で出会った逸材たちも、最初に決めたゴールとは違うところにたどりつくこともありました。

コツコツと継続し、そのプロセスで真剣に自分に向き合っていれば、それまでは見えなかった自分のゴールをみつけることもあります。

継続することと執着することは、まったく別のことです。

その後、私はある目標を持って7年間大学院に所属し、当初のゴールとは異なるゴールを見つけていまに至ります。

”淡々と”決めたことを毎日続けられることが、目的に近づく一番の近道だと実感しています。

 

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チームや組織の価値は、何が決めるのか

今日の材料:チーム、組織、価値、対話

理屈ではなく、本能的に「なるほど!」と思えることを大事にする。そのことが周りにも良い影響を与える、と前回の記事の最後に書きました。

それは、一体どういうことでしょうか。

少し違う角度からお話しましょう。みなさんはチームとか組織の価値は何が決めると思いますか。

リーダーがいかにメンバーを鼓舞するか、とか組織がどんな目標を立てるのか、などの知識やノウハウ。「良いチームを作るには」とか、「強い組織になるためには」といったタイトルの本に書かれているような、さまざまな問題解決法が思い浮かびます。

ちなみに私は会社員時代、こういう本が大好きでした。というより、こういう本を読むことで、ストレスフルな仕事の人間関係をやり過ごしていました(苦笑)。

でも、こうした本に書かれた知識やノウハウをリーダーが実行しただけで効を奏すことは、滅多にありません。少なくとも、すぐに効果が出ることはまれでしょう。なぜなら、その効果を決めるのはリーダーの在り方ではなく、チーム全体の在り方だからです。

では、どう「在れ」ば良いのか。

全員が自立して「なるほど!」を探すのです。その一人ひとりの「なるほど!」こそが集団的、もしくは組織的な価値観を形成しているからです。

だからこそ、リーダー自身がまず率先して「なるほど!」を探しに行く必要があります。既存の解決法は理屈抜きで共感できる「なるほど!」ですか?そうでなければ、まず自分と自分のチームや組織にしっかりと向き合わなければなりません。

そしてリーダーだけでなく、全員が「なるほど!」を大切にして、一人ひとりがそれにこだわり、他の人ととことん本音をぶつけ合って、もっと深い「なるほど!」を得られるようにすること。こうした努力の積み重ねこそが、チームや組織の価値になるのではないでしょうか。

自分だけでなく相手も「なるほど!」を大切にしていると思えば、既存の解決方法ではなく今、目の前にいる相手と真摯に対話することが大事、と気付くことが出来るでしょう。

こうした環境はやはり、リーダーが作りやすい。でも、まず自分自身が変わることで、関わる他の人にも何らかの影響を及ぼすはずです。

今振り返ると、ストレスフルな人間関係の中にいた会社員時代、私は「上司にこうあってほしい」とばかり考えていました。でも、その関係性の価値を決めていたのは、たぶん上司だけではありませんでした。

自分の「なるほど!」を追求し、相手と本音で対話すること-まだこれからの人生で、出来ることはたくさんある、と今思っています。

「なるほど!」と思うことを大切に。

今日の材料:なるほど!、行動の原動力、周囲への影響

このブログでは繰り返し、「当たり前の日常を見直すこと」や、「自分に向き合うこと」が大事、と主張してきました。

でもそれは、どうやってすればいいのでしょう。

その方法の一つとして提案するのは、あなたが「なるほど!」と思うことを大切にするということです。

誰かの話を聞いたり、本を読んだり、何かの機会に「なるほど!」とか「しっくりきた!」、「腹落ちした!」と思うこと、ありませんか。

喉に詰まった骨が取れたような感覚だったり、思いもしなかったけどまさにその通り!と感じたり。とにかく頭の中で何かがピカっと光ったような感覚。

この理屈ではなく感覚的に得られる「なるほど!」こそが、自分を動かす大きな原動力になるのです。

子供の頃は、多くの人がこういう感覚に素直に反応し、行動していました。でも成長するにつれて、いつの間にかそれを邪魔する判断基準を身につけてしまいます。地位のある人の言葉だから、とか、多くの人が言っていることだから、とか。

そういえば以前は頻繁に、マスメディアの是非が問われていました。マスメディアには、人々にとって何が真実かということだけでなく、何が大切かといった価値基準さえも左右する力があります。ゆえに、発信する側にはゆるぎないモラルが必要です。

でも最近では、一般の視聴者の発信力が上がり、違うカタチで世論が形成されていることに気付きます。ニュース記事に対するコメント欄を見ていると、反論が反論を呼び、モラルが問われぬままに大勢の影響力が増していくことを空恐ろしく感じることがあります。

いずれにしても、「なるほど!」が持つピカっと光る感覚は、こうした周囲の「常識」に埋もれてしまった自分が、本当は何を大切に思っているかを教えてくれるのです。

それは理屈ではないので、人から植えつけられるものではありません。でもそこで生み出されるゆるぎない納得は、何よりも人を動かす力となります。

誰かから言われたことを鵜呑みにするのではなく、自分が「なるほど!」と思えることを積極的に探すことが、今ある日常を問い直し、自分自身を見つめ直すことにつながるのではないでしょうか。

しがらみを捨て、頭を真っ白にして、あなたの「なるほど!」を見つけてみませんか。

そうすることで、あなただけでなくあなたの周りにも、良い影響があるはずです。