「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある
今日の材料:自分、他人、関係性、気付き、語り直し
ブログの投稿を積み重ねていく中で、最近は記事にいろいろなコメントを頂けるようになりました。何か新たな思考が生まれるような気がして、対話の楽しさをますます実感しております。
前回の記事でも「自分らしさ」や「自分探し」について、塾パパさんからこんなコメントを頂きました。
他人がいるから自分を認識できるのかもしれません。他人がいなければ自分を認識できないかもしれません。もし世界に自分ひとりしか人間がいなかったら自我は芽生えないのではと考えてしまいます。
なるほど!確かに、自分を認識する上で他人という存在はなくてはならないものですよね。
実は前回も引用した「”私は誰か”は自分だけでは決められない」という記事の中で、私は「相手」のことを2つの視点から書きました。
一つは、「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものということ。
もう一つは、「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているということです。
後者については、なんとなく想像できるのではないかと思います。他人は自分を写す鏡。「あなたって〇〇だよね」と言われることほど、自分自身を認識する上で強く印象に残ることは、なかなかありません。
では、前者はどうでしょう。前回はブログにプロフィールをどう書くか、という話をしたのですが、今日はもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
「自分とは何者か」を考える上で関係性に焦点を当てるというのは、伝統的な自己分析の方法、いわゆる「精神分析」とは一線を画する考え方です。
精神分析療法は、良く知られているようにいわゆる無意識の抑圧を解放することによって、問題を解決しようとします。ざっくり言うならば、さまざまな環境要因によって封じ込められていた「本当の自分」を発見し、それを受け入れることによって、葛藤を解消しようとするものです。
それに対して、最近ではナラティブ・セラピーという療法をよく耳にします。【※『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ 』野口裕二著(医学書院)などを参考にしています。】そこでは問題を自分の中にあるのではなく、関係性によって築かれたものとして一度外在化します。さらにそれを「語り直す」ことによって、問題そのものへの認識を変えるというものです
抽象的なので具体例を挙げてみましょう。
新入社員のA氏は、職場で高圧的な物言いをする上司の下で働いているうちに、「我慢するのが会社員」という認識を持つようになった。悶々と毎日を過ごしていたある日、上司とは別の管理職B氏から会社に対する本音を言ってほしいと言われた。そこでA氏が差しさわりのないことしか言わずにいると、B氏は「そうじゃない」と言い、B氏自身が自分の不満を洗いざらい話し始めた。驚きつつもそれなら、とA氏も自分自身の不満もさらけ出した。その経験がきっかけとなり、A氏は自身の「我慢するのが会社員」という感覚を変化させ、やがて上司にも言いたいことを言えるようになった。
実はこれ、実際に聞いた話を少しだけアレンジしたものです。A氏の「我慢するのが会社員」という自己認識は、上司との関係性の中で築かれたことは間違いありません。でも、それが当たり前の日常となってしまうと、いつの間にかそのことは動かしがたい現実となってしまうのです。
でもA氏はB氏との対話の中で、その現実を語ること(外在化すること)によって、それが上司との関係性の中で築かれた限定的なものでしかないと気付き、それとは違う「本音を話せる」関係性を見つけ出します。
A氏はこれをきっかけに「我慢するのが会社員」という自己認識を語り直します。上司の高圧的な態度という環境は全く変わっていないのですが、A氏にとって自分の行動を抑制していた問題が問題でなくなり、言いたいことはきちんと言うという新たな自分を築いたのです。
精神分析が「本当の自分」を発見し、それを解放するという自分ベースの方法であるのに対し、ナラティヴ・セラピーは関係性に焦点を当てた「気付きー語り直し」という対話ベースの方法です。
実際にはこんな単純に行かないよ!という声が聞こえてきそうです。でも人と人との関係性の力というのは思った以上に大きく、時に動かしがたい現実として自分を縛りつけてしまうということは、往々にしてよくあるように思えます。
自分とは一体何なのか、と感じた時、一度この「気付きー語り直し」という対話ベースの方法を試してみてはいかがでしょうか。
もし環境が変えられなかったとしても、自分の認識が変わることで思わぬ変化が起こるかもしれません。
「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由
今日の材料:自分らしさ、自分探し、本当の自分、問い、気付き
このブログの中で「自分らしさ」や「自分探し」は重要なカテゴリーであり、中心となるテーマです。でもネット上でいろいろ見ていると、嫌われることも多々ある言葉です。
日々の生活の中で我慢し、押し込めている「本当の自分」を見つけよう、という考え方に違和感を感じる―「本当の自分」って何?そもそもそんなもの自分でわかるはずないし、わかる必要があるの?と感じられることがその理由の中心にあるようです。
ごもっともだと思います。
「本当の自分」というある種の決定論的な答えが「自分らしさ」であり、その答えを見つけることが「自分探し」ととらえるなら、私もおそらく馴染めないでしょう。
私は以前、「”私が誰か”は私だけでは決められない」という記事の中で、こんなことを書きました。
「自分探し」は、
自分の心の中を必死に覗こうとすることではなく、他の人との関わりの中で自分が何を感じ、どう行動してきたかを見つめ直すこと
そして
自分のストーリーは常に進行中
ということも。
そこに、「本当の自分」というゆるぎない答えはないと思っています。
今ある関係性の中で自分自身を振り返ること―そこでの発見がこれからほんの少しでも生きやすくなるヒントとなるなら、そこにこそ大きな意義があると感じています。
私が長く付き合っているある友達が、「自分がないのが自分らしい」と言っていたことがありました。
彼女は今、若い頃に思い描いていた姿とは違う人生を生きていると感じています。新たな家族と年を重ねて過ごしてきた中で、新たな関係性と価値観を受け入れているのです。
人によっては「本当に幸せなの?」と感じる人もいるかもしれない―でもいろいろ悩んだ過程を経て今の彼女は清々しく、それが自分らしいと言っています。
またネット記事で読んだある人は、一度自分や周りが「自分らしさ」を定義してしまったばかりに、そうでない自分を許せなくなってしまったと語っています。
そしてそのことに気付き、今の自分にとって大切なことは何かをもう一度考え直した時、初めてその「自分らしさ」に苦しめられていたことに気付いたそうです。
どちらも考え抜いた末に今の道を選んだ軌跡はやはり「自分探し」であったけど、そこに特定の道筋はなかったのではないでしょうか。
問いを続けることが「自分探し」であり、そこで見つかる小さな気付きの積み重ねが「自分らしさ」だと考えることで、これまでとは違う光が当たると私は思っています。
そう願い、私は自分自身への問いと気付きをこのブログを書いてきました。
もしご興味があれば、ぜひこのブログのカテゴリ―の「自分探し」や「自分らしさ」をのぞいていただければ幸いです。
ただこういう言葉を嫌うという人は、それだけ自分に向き合ってきた人だと私は思うのです。
そういう人たちのストーリーと、そこでの「問い」や「気付き」の中にもまた、大切な発見がたくさんあると思います。
人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ
今日の材料:人間関係、網の目、結び目、主体性
インターネットが普及し、不特定多数の人々が情報を受発信できるようになってから、人との関係性に対する私たちのとらえ方は大きく変化しました。
ネット(網の目)とはよく名付けたもので、無数の網が絡まり合い、複雑な構造を織りなしています。以前【「なるほど!」と思うことを大切に】という記事でも書きましたが、あるコメントがモラルを問われぬままに大勢の影響力を持つようなことが起こるようになったのも、ネット構造の力の一つなのかもしれません。
ただSNSに限らず、こうした集団心理は日本社会の根底に常にありました。
いじめがその典型的な事例かもしれません。近年では「教師いじめ」という衝撃的な事件もありましたが、学校だけでなく職場やコミュニティ、親同士の関係性など、集団があるところには必ずある種のパワー関係があり、こうした不具合が起こりがちです。
このブログを訪れてくださった方も、何かしらネット上の人間関係に悩みを抱えてこられたのでしょうか。集団心理、パワー関係―こうした問題がネットの普及により複雑化し、家にいても安らげない状況を作り上げているような気がします。
でもその一方で、大きな喜びを与えてくれる出来事もまた、人との関係性の中で起こります。誰にでもこうした経験が一つ二つ、もしかしたらそれ以上に記憶にあるのではないかと思います。
私がSNS上の関係性を通してとても嬉しかった出来事の一つは、私のブログを他のブロガーさんが紹介してくださったことです。とても示唆に富む言及でした。
「毎日ブログを書いていると、何かの巡り合わせで新しいブログとつながりを持つことができる」-
ほんの小さな、偶然のつながりです。実は私もこの方のブログを読んでいて、物事のとらえ方やブログ観など、共感するものがありました。
それは、広い網の目(ネット)の中での小さな結び目(ノット)なのかもしれません。
このネットとノットという言葉が、SNSを含めた人間関係の複雑な問題に対応する上で、1つのヒントとなるような気がします。
この言葉は、教育学博士のユーリア・エンゲストローム氏の著書から拝借しました。
エンゲストローム氏は日々の活動から起こる学習の在り方について、新たな見解を示しています。既存の枠組み(チームや学校、組織など)を越え、ノットによって創発的に広がっていくことこそ、これまでにない新たな学びを引き起こすというものです。
興味がある方はぜひ、『ノットワークする活動理論: チームから結び目へ』(新曜社)をお読み頂ければと思いますが、とても難しい理論で私自身、きちんと理解できているわけではありません。
でも、このネットとノットという言葉自体が、私の中での引っかかりー結び目となりました。
SNSでたくさんの情報が溢れる中、私たちはどうしても人の目を引く情報に引き寄せられてしまいます。それ自体は悪い事ではありません。ただ、一度立ち止まってその情報に対する何が自分にとってのノットなのか、考えてみる必要があると思うのです。
そして勢いで同調したり反論したりするのではなく、まずは自分でそのノットをきつく締めたり緩めたりしながら、一体何が引っかかるのかを熟慮した上で、その考えを表明するべきではないでしょうか。
エンゲストローム氏は結び目によって広がる活動をネットワークならぬ「ノットワーキング」とし、ノットを中心とする主体的な活動と考えています。共感するにしても反対するにしても、しっかりと自分の軸を持つことが必要なのです。
これはSNSを含めた人間関係にも言えることです。もし今、純粋な興味や共通性を越えた関係性に縛りつけられているなら、あなたにとって何がノットなのかをもう一度よく考えてみてください。
そしてもしそれがただ網の目のしがらみに絡まっているだけならば、ノット以外のことにしがみつく必要はないのではありませんか。
「広く浅く」でも「狭く深く」でもない、この「ネットからノットへ」という人間関係の広げ方が、今私の中で一番しっくり来ています。
追記)他にも人間関係に関連する記事をいくつか書いています。
創造性は意外性から始まる―異なる視点を受け入れてみよう―
今日の材料:悪魔の代弁者、意外性、創造性、判断留保
ブログを書いていてスターやブックマーク、励みになるコメントを頂き、継続のモチベーションを各段に上げてくださる皆さまには、いつも本当に感謝しております。
そして時々、「そこきますか!?」と思えるような視点からのコメントを頂くことがあり、驚きとともに考えを掘り下げる良い機会をもらっています。
「書くことも読むことも対話だ」という記事を以前書きましたが、こういう意外性はやはりコメントのような直接のやり取りの中で起こるように思えます。
ところで、この意外性を意図的に生み出すことで創造性を広げるという手段があるのを、ご存じでしょうか。
「悪魔の代弁者」(devil's advocate)といわれるものです。
この言葉は、カトリック教で故人を聖人として認めるか否かの審議において、指名される役割からきています。「悪魔の代弁者」に指名された人はあえて故人を非難し、それでもなおその人物が聖人に値するという合意が得られてようやく、聖列に加えられるのです。
そこから転じ、議論や討論などで多数意見に対して反対や批判を言う人のことをこのように呼びます。「悪魔の代弁者」は同調圧力や予定調和を崩し、自由な発言と活発な意見交換を促そうとする人や役割ととらえられています。
たまに「私はあまのじゃくなんですよ」という人に出会うと、私はいつもこの「悪魔の代弁者」を思い出します。でもこの方法、私が以前書いた「そもそも論」(☆参照)以上に、諸刃の剣になりやすいことは容易に想像出来ますよね。
批判や反論に出会うと私たちはまず、「判断」をしてしまいます。感情が先に善悪の判断をしてしまうと、その内容を受け入れる前に拒否反応を起こしてしまうのです。
でも人生を振り返ってみると、異なる意見が自分の考えを大きく変え、その視野を広げてくれたということは少なくありません。人というのはどう頑張っても、自分自身の視点から逃れて物事を見ることは出来ないものです。だからこそ、意識して異なる視点を知ることは、遅かれ早かれ自分の人生を豊かにしてくれるものだと思うのです。
では、感情的な判断をする前に出来ることはあるのでしょうか。
異文化圏などで生活するときに必要な工夫に、「判断留保」というのもがあります。これは先に書いたような善悪の「判断」を一度横に置いて、純粋に相手の言動の背景に興味を持ってみるということです。
私は以前、ある国のファーストフード店で買い物をしていたとき、明確な順番がわからない状況の中で店員が声を掛けてくれるのを待っていました。でもその店員はなかなか声を掛けてくれないどころか、迷惑顔をして私の顔を見ていたのです。
私はすごく嫌な気持ちになり、買うのを諦めて店を出ました。でも、そこでは自分から注文を言わなければならない、ということが後からわかりました。何も言わずにぼーっと突っ立っていた私は、店員にとってはむしろ迷惑な客だったのです。
もしその時「嫌な店員だ」という判断を留保したとしたら、私は別の対応を試み、違う結果になっていたかもしれません。
現実には、無意識に起こるこうした感情を抑えるのはなかなか難しいものです。でも異なる視点が必ずしも「悪」ではないという意識を根底に持ち、ほんの少しだけ判断を留保してみることで、今見ている景色は少しずつ変わってくるのではないでしょうか。
ちなみにこの「悪魔の代弁者」は、客観的に存在するだけでなく、自分で作り出すことも出来ると私は思っています。
例えば、私が頂いたコメントは決して批判や反論というものではなく、単純に私にとって意外な内容というだけでした。
ただ、意外性を自分の中で興味に変え、さらに膨らませていくことでも、自分の視点を広げることは出来るように思えます。
反論や批判に応えることはハードルが高いですが、日常の中で目にする意外性に目を向け、それを追求していくことから始めてみるのも良いかもしれません。
悪魔はいつも、あなたのそばで見つけられるのを待っています。
行動することで知恵が生まれる
今日の材料:行動すること、知恵、理論知、実践知
すっかり秋らしい季節になりました。
読書の秋、スポーツの秋などと言いますが、何かを始めるにはちょうど良い時期かもしれません。
でも年齢を重ねると、なかなか腰が上がらないものです。原因が年齢の壁である場合のことはこの記事で、そして日々の生活の中で何が出来るかについてはこの記事で、書きました。
ただ私自身もそうなのですが、物事を深く考えるタイプの人は年齢や環境を問わず、そもそもそれを行動に移すということ自体が苦手なのではないでしょうか。
そういう人はたいてい知識が邪魔をして、行動を制限してしまいます。「〇〇が~であれば」とか、「△△は・・であるべきだ」といった思考が先行してしまう一方で、それが出来ない理由ばかりが頭を巡ってしまいます。
一言で言えば、「失敗したくない」と思ってしまうのです。
少し話は変わりますが、私は学生の頃から英語を勉強するのが好きでした。ただ科目としての英語は得意でも、実践的なコミュニケーションとなると全くできませんでした。翻訳とか通訳などの語学的に優れた能力を持つ人は、ある種の才能に恵まれた人だと思っていたところがありました。
でもある日、フリーランスで活躍しているある翻訳者の女性の記事が目に留まったんです。その人は、かつて仕事の出来る先輩の下で自分の能力のふがいなさを思い知ったり、全く役に立たずに恥ずかしい思いをしたりといった赤裸々な体験を、隠すことなく語っていました。
成功している人を見るとつい結果ばかりが目に入ります。その陰にある数々の「失敗」にはなかなか目がいきません。でもその成功は、数々の「失敗」を無駄にしなかったことによって導かれたのではないでしょうか。
知識には2種類あると言われます。1つは理論知で、一般的な状況下で起こりうることを予測するための知識です。それに対して、実践知というものがあります。実際に行動する中で善し悪しを判断することによって、身につけられる知識です。
どちらも生きていて必要な知識には違いないのですが、多くの場合、私たちは理論知に頼ってしまうことが多いような気がします。なぜなら、そちらの方が実践知よりたやすく手に入るからです。成功者の成功の秘訣が、まさしくそれです。
でも、他人ではなく自分のなりたい姿に近づいて行くためには、実践知を積み重ねていくことがどうしても必要です。そしてその実践知は、一見すると地味で面白くない、自分が行動することでしかその価値に気付けないものなのです。まさに、「失敗」のように一見無駄に見えることです。
「結果よりプロセスが大事」とこのブログでも何度も書いていますが、そのためにはこの一見無駄に見えることに意味を見出すことが必要です。
でもそれは、自分が思っている以上に難しいことなのです。
もし今、あなたが理論知によって行動を制限されていると気付いたら、ぜひ実践知という考え方を持つことから始めてみてはいかがでしょうか。
お互い充実の秋にしたいですね!
書くことも読むことも対話だ
今日の材料:ブログ、書くこと、読むこと、対話、継続
ブログを書くようになってから、本当にいろいろな気づきがあります。
例えばこの記事で書いたように、プロフィール一つをとっても読んでくださる方からの反応で修正しました。日々のブログで書くことにも、自分の頭の中だけでは起こせない変化が生まれているように思えます。
私はこれまで、書くことはモノローグ(独り言)と考えていたところがありました。本来なら文章を書く際に読者のことを想定するのは当たり前ですが、それを体感したのはブログを書き始めてからかもしれません。
これは読む側になっても同じです。これまでは知りたい情報を収集する目的で、ネット記事を検索したり、本を読んだりしていました。でも、ブログを始めると同時に読者としてブロガーさんとつながるようになり、無機質な情報としてではなく生きたストーリーとして文章に触れるようになりました。そのおかげでどんな文章でも、より自分の視点を持って読めるようになりました。
書くことも読むことも対話(ダイアログ)ですね。
例えば実際にコメントを頂いたり、自分もコメントを書いたり、こういうやりとりは目に見えて対話です。それが一番明確なコミュニケーションですが、必ずしもそれだけではありません。
アクセス数やアクセス元の変化、スターやブックマーク、フェイスブックの反応などだけでも、大きな意味のあるフィードバックです。良い方向、好意的なものに限らず、どんなフィードバックでも自分の書いたものについて考える良いきっかけになるんです。
私自身はあまりブログ運営のことを記事にはしていないのですが、アクセス数やアクセス元など、日々チェックしています。ブログの書き方やアクセス報告をされるブロガーさんの記事はとても参考になりますし、SEO対策その他の工夫なども読んでいます。(記事には上手く反映できていませんが・笑)
みなさん、いろいろ工夫しながらブログを書かれていますよね。「どうやったらアクセスが増やせるか」という記事はやはりアクセスが多いようです。もちろん、その方法も一つではないのでしょうが、ブログは自分自身を振り返るだけでなく他の人との対話の機会ももらえる、本当に素敵なツールです。
ちなみにこの記事では、「対話は続けていくことにこそ意味がある」と書きました。そしてその目的は分かり合うことだけではなく、新しい関係性を築いていくことだ、ということも。
ブログの目標として「100記事」と頻繁に書かれており、それがドメインパワーが上げ、結果として検索上位となるということがよく説明されています。もちろんそこまで単純化出来るものではないかもしれませんが、継続することが力になるのなら、すごく良く出来たシステムだと感じます。
私にはまだまだ100記事は遠いですが、そのプロセスにこそ意味があると信じて、これからも頑張ります。
私のブログでは、通常あまり読者の方々にメッセージを書いておらず恐縮ですが、今日はこの場を借りてお礼を申し上げます。
いつもありがとうございます!
「働くということ」を問い直すー自分軸で生きるためにー
今日の材料:働くということ、組織を生きる、働き方の多様性
最近ブログを書いていて思うことがあります。
このブログのタイトルは【「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ】。でも、これまでの記事は「生きる」に寄っているような気がする。
かといって、【「生きる」を楽しむためのレシピ】とするのも、何か違う
そもそも「働く」ってどういうことなんだろう、と。
働く=会社員!?
「働く」というと、なんとなく会社や組織というものを想像してしまいます。
日本人が仕事を聞かれた時「〇〇社で経理をしています」のように、社名を言う傾向があることはよく知られています。対して欧米人は、自分自身の個性や専門性をアピールするので、グローバルなビジネスの場では発想を変える必要がある、と頻繁に指南されます。
でも、私はこういう所属意識を否定したいとは思いません。むしろ「自分がある組織のメンバーである」という感覚を持つことは、誇れることだと思っています。
ただそれは、その人の認識の仕方にもよります。
組織とは何か
ここで少し組織の話をしてみましょう。
「組織」と聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべますか。規模や知名度、それとも階層別に書かれた組織図でしょうか。
こういう目に見える「何か」が組織だと思いがちですが、本当は目に見えない価値観であったり、人と人との関係性の方がよほどその「組織」を表しています。
これは働いた経験がある人なら、多かれ少なかれ実感していることでしょう。
組織論研究者のワイクは、「組織」とは何かという視点を転換しました。組織(organization)というのは、誰からも同じように目に見える固定物(名詞)と考えられてきたけれど、実際は組織化(organizing)、つまり所属するメンバーの日々の営みによって脈々と変化している目に見えない過程(進行形)だ、と。
つまり、一人ひとりの生き方が、組織(化)の一端を担っているのです。
組織「を」生きる
「自分がある組織のメンバーである」と感じるとき、もしそれが会社の規模や知名度に対する誇りだったならば、それは個人の生き方とは何の関係もありません。
でも、もしその言葉が、組織の中で自分軸を持ち、何が大切かを見極められるという自信に裏付けられた誇りなら、それはその人が組織で自分の人生を生きているということだと思うのです。
「自分は〇〇社の一員だ」と言う人が、その会社”で”生きているのではなく、その会社”を”生きていると感じられるなら、それこそが真に誇れる所属意識ではないでしょうか。
私がこれまでの記事で書いてきたこと、常識を問うこと(☆参照)、自分探しや対話を続けて行く(☆参照)ということは、「組織を生きる」ということにも何の矛盾もありません。
働き方は生き方によって決まる
ちなみに組織に所属していない人にとっては、まさに働くことが生きることそのものでしょう。
それだけでなく、家事や子育て、介護、それ以外の多くの日常的な関わりの中で、誰かのために行動したり誰かと支え合ったりすることはすべて、「働く」ことではないでしょうか。それは同時に、「生きる」ことでもあると思います。
「人生100年」と言われる時代がより身近になっていくにつれて、「働く」と「生きる」はより近いものとなるでしょう。自分の人生をいかに生きるかを考え続けることは、多様な働き方がある中で自分が何を選んでどう行動するかという判断に、一貫した方向性を示してくれるはずです。
ということで、結論です。
このブログは、【「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ】というタイトルで続けようと思います!