行動することで知恵が生まれる
今日の材料:行動すること、知恵、理論知、実践知
すっかり秋らしい季節になりました。
読書の秋、スポーツの秋などと言いますが、何かを始めるにはちょうど良い時期かもしれません。
でも年齢を重ねると、なかなか腰が上がらないものです。原因が年齢の壁である場合のことはこの記事で、そして日々の生活の中で何が出来るかについてはこの記事で、書きました。
ただ私自身もそうなのですが、物事を深く考えるタイプの人は年齢や環境を問わず、そもそもそれを行動に移すということ自体が苦手なのではないでしょうか。
そういう人はたいてい知識が邪魔をして、行動を制限してしまいます。「〇〇が~であれば」とか、「△△は・・であるべきだ」といった思考が先行してしまう一方で、それが出来ない理由ばかりが頭を巡ってしまいます。
一言で言えば、「失敗したくない」と思ってしまうのです。
少し話は変わりますが、私は学生の頃から英語を勉強するのが好きでした。ただ科目としての英語は得意でも、実践的なコミュニケーションとなると全くできませんでした。翻訳とか通訳などの語学的に優れた能力を持つ人は、ある種の才能に恵まれた人だと思っていたところがありました。
でもある日、フリーランスで活躍しているある翻訳者の女性の記事が目に留まったんです。その人は、かつて仕事の出来る先輩の下で自分の能力のふがいなさを思い知ったり、全く役に立たずに恥ずかしい思いをしたりといった赤裸々な体験を、隠すことなく語っていました。
成功している人を見るとつい結果ばかりが目に入ります。その陰にある数々の「失敗」にはなかなか目がいきません。でもその成功は、数々の「失敗」を無駄にしなかったことによって導かれたのではないでしょうか。
知識には2種類あると言われます。1つは理論知で、一般的な状況下で起こりうることを予測するための知識です。それに対して、実践知というものがあります。実際に行動する中で善し悪しを判断することによって、身につけられる知識です。
どちらも生きていて必要な知識には違いないのですが、多くの場合、私たちは理論知に頼ってしまうことが多いような気がします。なぜなら、そちらの方が実践知よりたやすく手に入るからです。成功者の成功の秘訣が、まさしくそれです。
でも、他人ではなく自分のなりたい姿に近づいて行くためには、実践知を積み重ねていくことがどうしても必要です。そしてその実践知は、一見すると地味で面白くない、自分が行動することでしかその価値に気付けないものなのです。まさに、「失敗」のように一見無駄に見えることです。
「結果よりプロセスが大事」とこのブログでも何度も書いていますが、そのためにはこの一見無駄に見えることに意味を見出すことが必要です。
でもそれは、自分が思っている以上に難しいことなのです。
もし今、あなたが理論知によって行動を制限されていると気付いたら、ぜひ実践知という考え方を持つことから始めてみてはいかがでしょうか。
お互い充実の秋にしたいですね!
書くことも読むことも対話だ
今日の材料:ブログ、書くこと、読むこと、対話、継続
ブログを書くようになってから、本当にいろいろな気づきがあります。
例えばこの記事で書いたように、プロフィール一つをとっても読んでくださる方からの反応で修正しました。日々のブログで書くことにも、自分の頭の中だけでは起こせない変化が生まれているように思えます。
私はこれまで、書くことはモノローグ(独り言)と考えていたところがありました。本来なら文章を書く際に読者のことを想定するのは当たり前ですが、それを体感したのはブログを書き始めてからかもしれません。
これは読む側になっても同じです。これまでは知りたい情報を収集する目的で、ネット記事を検索したり、本を読んだりしていました。でも、ブログを始めると同時に読者としてブロガーさんとつながるようになり、無機質な情報としてではなく生きたストーリーとして文章に触れるようになりました。そのおかげでどんな文章でも、より自分の視点を持って読めるようになりました。
書くことも読むことも対話(ダイアログ)ですね。
例えば実際にコメントを頂いたり、自分もコメントを書いたり、こういうやりとりは目に見えて対話です。それが一番明確なコミュニケーションですが、必ずしもそれだけではありません。
アクセス数やアクセス元の変化、スターやブックマーク、フェイスブックの反応などだけでも、大きな意味のあるフィードバックです。良い方向、好意的なものに限らず、どんなフィードバックでも自分の書いたものについて考える良いきっかけになるんです。
私自身はあまりブログ運営のことを記事にはしていないのですが、アクセス数やアクセス元など、日々チェックしています。ブログの書き方やアクセス報告をされるブロガーさんの記事はとても参考になりますし、SEO対策その他の工夫なども読んでいます。(記事には上手く反映できていませんが・笑)
みなさん、いろいろ工夫しながらブログを書かれていますよね。「どうやったらアクセスが増やせるか」という記事はやはりアクセスが多いようです。もちろん、その方法も一つではないのでしょうが、ブログは自分自身を振り返るだけでなく他の人との対話の機会ももらえる、本当に素敵なツールです。
ちなみにこの記事では、「対話は続けていくことにこそ意味がある」と書きました。そしてその目的は分かり合うことだけではなく、新しい関係性を築いていくことだ、ということも。
ブログの目標として「100記事」と頻繁に書かれており、それがドメインパワーが上げ、結果として検索上位となるということがよく説明されています。もちろんそこまで単純化出来るものではないかもしれませんが、継続することが力になるのなら、すごく良く出来たシステムだと感じます。
私にはまだまだ100記事は遠いですが、そのプロセスにこそ意味があると信じて、これからも頑張ります。
私のブログでは、通常あまり読者の方々にメッセージを書いておらず恐縮ですが、今日はこの場を借りてお礼を申し上げます。
いつもありがとうございます!
「働くということ」を問い直すー自分軸で生きるためにー
今日の材料:働くということ、組織を生きる、働き方の多様性
最近ブログを書いていて思うことがあります。
このブログのタイトルは【「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ】。でも、これまでの記事は「生きる」に寄っているような気がする。
かといって、【「生きる」を楽しむためのレシピ】とするのも、何か違う
そもそも「働く」ってどういうことなんだろう、と。
働く=会社員!?
「働く」というと、なんとなく会社や組織というものを想像してしまいます。
日本人が仕事を聞かれた時「〇〇社で経理をしています」のように、社名を言う傾向があることはよく知られています。対して欧米人は、自分自身の個性や専門性をアピールするので、グローバルなビジネスの場では発想を変える必要がある、と頻繁に指南されます。
でも、私はこういう所属意識を否定したいとは思いません。むしろ「自分がある組織のメンバーである」という感覚を持つことは、誇れることだと思っています。
ただそれは、その人の認識の仕方にもよります。
組織とは何か
ここで少し組織の話をしてみましょう。
「組織」と聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべますか。規模や知名度、それとも階層別に書かれた組織図でしょうか。
こういう目に見える「何か」が組織だと思いがちですが、本当は目に見えない価値観であったり、人と人との関係性の方がよほどその「組織」を表しています。
これは働いた経験がある人なら、多かれ少なかれ実感していることでしょう。
組織論研究者のワイクは、「組織」とは何かという視点を転換しました。組織(organization)というのは、誰からも同じように目に見える固定物(名詞)と考えられてきたけれど、実際は組織化(organizing)、つまり所属するメンバーの日々の営みによって脈々と変化している目に見えない過程(進行形)だ、と。
つまり、一人ひとりの生き方が、組織(化)の一端を担っているのです。
組織「を」生きる
「自分がある組織のメンバーである」と感じるとき、もしそれが会社の規模や知名度に対する誇りだったならば、それは個人の生き方とは何の関係もありません。
でも、もしその言葉が、組織の中で自分軸を持ち、何が大切かを見極められるという自信に裏付けられた誇りなら、それはその人が組織で自分の人生を生きているということだと思うのです。
「自分は〇〇社の一員だ」と言う人が、その会社”で”生きているのではなく、その会社”を”生きていると感じられるなら、それこそが真に誇れる所属意識ではないでしょうか。
私がこれまでの記事で書いてきたこと、常識を問うこと(☆参照)、自分探しや対話を続けて行く(☆参照)ということは、「組織を生きる」ということにも何の矛盾もありません。
働き方は生き方によって決まる
ちなみに組織に所属していない人にとっては、まさに働くことが生きることそのものでしょう。
それだけでなく、家事や子育て、介護、それ以外の多くの日常的な関わりの中で、誰かのために行動したり誰かと支え合ったりすることはすべて、「働く」ことではないでしょうか。それは同時に、「生きる」ことでもあると思います。
「人生100年」と言われる時代がより身近になっていくにつれて、「働く」と「生きる」はより近いものとなるでしょう。自分の人生をいかに生きるかを考え続けることは、多様な働き方がある中で自分が何を選んでどう行動するかという判断に、一貫した方向性を示してくれるはずです。
ということで、結論です。
このブログは、【「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ】というタイトルで続けようと思います!
「そもそも」論・再考
※9月12日(土)から13日(日)にかけて日本列島を通過した台風19号によって、事前に深刻な被害予想が出ていたにもかかわらず多くの犠牲者が出てしまったことに、本当に心が痛みます。家屋の浸水等、被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げますと共に、一日も早い復旧をお祈りしております。
今日の材料:そもそも、目の前の問題、考え続けること
私は「そもそも」を考えるのが好きです。
これまでの記事でも、「そもそも」が結構な頻度で出てきています。
でも、いわゆる「そもそも」論は、嫌がられることも多いものです。
私も会社員経験があるので、よくわかります。確かに目の前に解決しなければならない問題があるのに、「そもそも~」と言い出す人は、場の空気が読めず面倒くさいタイプですよね。
ただ、ふと気付くと私たちは結局いつも、「目の前の問題」にばかり振り回されてしまいます。
「目の前の問題」が片づいてから「そもそも」に取り組むことは、まずないでしょう。
私たちは不確実な状況を嫌う傾向にあるので(☆参照)、「目の前の問題」はより早く解決しようとします。その一方で、見えない不安や不満にはなかなか向き合えず(☆参照)、「そもそも」にはたどりつきにくいのです。
つい優先してしまう「目の前の問題」が、「そもそも」を見えにくくしてしまいます。にもかかわらず、実際には「そもそも」を考えなければ、「目の前の問題」は繰り返し起こり続けるのです。
学習理論では「目の前の問題」に取り組むことをシングル・ループ学習、「そもそも」に取り組むことをダブル・ループ学習と言います。堂々巡りの前者を乗り越えて物事を変革していくためには、どうしても後者に向き合う必要があります。
とはいえ、一筋縄ではいかないからこそ避けたくなるのが「そもそも」。どうやって向き合えばいいのでしょうか。
少し発想を転換し、解決することではなく、考え続けることに意味を見出してみてはどうでしょう。
私はこれまで、「続けるコツは、結果に振り回されないこと」「対話の目的は分かり合うことじゃない」、「答えは簡単に見つからない方がいい」といったことを書いてきました。
このすべてに共通するのは、答えを出すこと以上に考え続けてみることにこそ意味がある、ということです。
誰だって答えの出ない問いを考え続けてモヤモヤするより、早く答えを出してスッキリしたい。でも本当に大切なことは、モヤモヤの中にあるのです。
そして解決が目的ではないのなら、仕事で「目の前の問題」を解決しなければならない時に、わざわざまとまらない方向に持って行く「そもそも」論は、やはり迷惑でしかありません。
だから「そもそも」は、自分に問いかけるんです。
例えば「幸せになりたい」と思うなら、
「そもそも私にとって、幸せって一体何なんだろう」 と。
そうやって考えることで、今まで見えなかったことが見えてくるかもしれません。
だから、私は「そもそも」を考えることが好きなんです。
端から見たら、やっぱり面倒くさい人かもしれませんが(笑)。
「私が誰か」は自分だけでは決められない
今日の材料:プロフィール、ブログ、自分、関係性、読者の方々
「働く」と「生きる」を楽しむ方法を考えることがメインテーマのこのブログ、その核心は「自分探し」にあります。
でも、そもそも「自分」って何なんでしょう。
ぱっと思いつくのは、自己紹介。職場や学校、その他さまざまな会合で初顔合わせの時には、必ず「私が誰か」ということを考えて表現します。
そうそう、ブロガーのみなさんは、たいていトップページにプロフィールを表示されていますよね。
でも実は私、ブログ開始当初はこのプロフィールを書いていませんでした。
ブログを読んでくださる方は不特定多数。その方たちにとって、私って誰なんだろう、と悩みまして。年齢や性別、社会的ステータスは書けるけど、それ以外に他の人と違う自分を表現するとしたら、何を基準にすればいいのか―。
同じように悩んだ方もいるかもしれません。
結局、「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものだと思うのです。
でも、逆の立場から考えれば、筆者が誰だかわからないブログは読みにくいですよね。ある日、「書いている人がどんな人か、見えるところに書いた方がいい」とアドバイスをもらい、悩んだ挙句、今のようなプロフィールにしました。
私はまだまだ駆け出しブロガーですが、長くブログを書き続けている方たちは、読者の方々の反応やその交流を経て、プロフィールを加筆したり修正したりしているのではないかと想像します。
「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているからです。読者とのコミュニケーションが進めば進むほど、書く人が表現する自分自身も変わっていくのは自然なことです。
「私が誰か」を決めているのは自分一人ではない―。それなら、私たちは他人に流されて生きなければいけないのでしょうか。
決してそうではありません。
むしろ、そのことに気付くことが「自分探し」の第一歩だと思います。
自分自身に真摯に向き合う、ということは、自分の心の中を必死に覗こうとすることではなく、他の人との関わりの中で自分が何を感じ、どう行動してきたかを見つめ直すことではないでしょうか。
たとえば自伝を書いてみるのはいかがでしょう。そこで過去を振り返ったときに思い出される日常の出来事や、ネガティブな経験。ある関係性の中での自分の立ち位置を振り返ってみることは、「自分探し」をきっと豊かにしてくれるはずです。
そして自分のストーリーは常に進行中です。自伝はどんどん更新して行きましょう。
いろいろなブロガーさんのストーリーを読ませていただいていると、日々の変化がとても面白いです。ブログを始めて本当に良かったと改めて思っています。
ところでこの記事は15回目の投稿なのですが、実は既に何度か自分のプロフィールを書き換えています。
みなさんに、いろいろな気付きを与えて頂いています。
答えは簡単に見つからない方がいい
今日の材料:登園しぶり、子育て、自分探し、対話
6歳になったばかりの子供が、登園しぶりをしています。
2,3歳の頃とは違って力も強いし自我も知恵もあります。全力で泣いて嫌がったり、行かないで済むよう私を説得したりする息子を、なんとか引っ張って行ってます。
時には休んでリラックスする時間を作ったり、いろいろやってみるのですが、なかなか改善しません。
原因は何なのでしょう。
お友達関係、運動会の練習などの園生活での不安、母親への甘え、家での我慢や不満、いろいろ考えた上でそれとなく本人に聞いたり、夫や、先生とも話して様子を見てもらいました。
でも、どれも理由であるようで、理由でない。何とかしなければと焦り、「いつまで続くんだろう」という不安に押しつぶされ、一度は泣いている子供にまで当たってしまいました。
親になってずいぶん経ちますが、人ひとりの成長を背負っているプレッシャーには今でも慣れません。迷って悩んで考えて、「これでいいのか」と自問自答する毎日です。
でもおかげで、いろいろと考えました。実はここ3回ほどの記事には、そのことが反映されています。
私は何が一番不安なのか、と考えたときに書いたのがこの記事。
「幼稚園に行かせること」だけが答えなのか、と悩んだときに書いたのがこの記事。
そして、子供や家族、先生と話す目的は「答え探し」じゃない、と思ったときに書いたのがこの記事です。
子供のことが心配で仕事が進まなかったり、子供が休めば物理的に時間が取れなかったり。正直に言えば、スッキリと解決する答えが欲しいです。
でも、ふと思うのです。たぶんその答え以上に大切なのは、こうやってみんなで考えたり、話したり、行動してみることなのではないか、と。
おそらく子育ては、その繰り返しでしょう。
そして自分が自分らしく生きていくということ自体、その繰り返しなのかもしれません。
自分探しの方法は、人によって違うはず。どこにも明確な答えはありません。
本やさまざまな記事に書かれていることは、どれも答えであるようで答えでない。それをきっかけに自分で考え、身近な人と対話したり、今までやったことのないことに挑戦したり、時には全く考えずに好きなことをしてみたり。
結果ではなくその過程に答えがあるのなら、簡単に見つからない方が納得できるものになるのではないでしょうか。
はい、だから私も、もやもやする毎日を頑張って過ごしていきたいと思います。
もしかしたら息子も、自分探しをしているのかもしれません。
対話の目的は、分かり合うことじゃない
今日の材料:対話、対話力、関係性の構築
前回の記事で、人間関係の常識としての「必ず分かり合えなければならない」ということを、問い直す必要があると書きました。
むしろ「そもそも分かり合えない」ことを前提とした方が、よほど現実的のような気がします。
では対話とは、何なのでしょう。
「対話が大事だ」ということは最近では頻繁に耳にするようになりました。効果的な対話の方法や対話力を高めるスキルなど、「分かり合うこと」を指南する情報があちこちに溢れています。
もし「分かり合う」ことが目的なら、分かり合えなければ対話は失敗、また相手にわかってもらえなければ、対話力が低いということになります。
本当にそうでしょうか。
この記事でも書きましたが、都度の結果は通過点でしかありません。それと同じように対話をする上で「分かり合える」かどうかは、一つの通過点でしかないと私には思えるのです。
対話は単なる方法ではなく、参加する人たちの納得や、互いの信頼関係を反映するプロセスだからです。
もし対話力というものがあるのなら、それはその場に参加する一人ひとりが自分自身にしっかり向き合い、互いに本音を話せる信頼関係だといえるでしょう。
それは個人ではなく、関係性の力です。
個人のスキルや能力だけでは説明できない、人間関係の在り方そのものなのです。
だからこそ、どんなに真摯な態度で話してたり聞いたりしても、変えられないことだっていくらでもあります。
「それなら初めから対話なんてしない方がいい」と思いますか。
いえ、この関係性を構築するのも、やはり対話なのです。
一人ひとりが都度の結果に惑わされず、自分自身とその関係性に向き合って対話を重ねていくこと-それを時間をかけて辛抱強く続けていくことで初めて、この関係性の土壌を築くことができるのではないでしょうか。
「分かり合うこと」ではなく、継続することそのものに意義を見出すだけでも、対話への意味づけは大きく変わってくるはずです。
そして先ほどの記事では、このようにも書きました。
コツコツと継続し、そのプロセスで自分に起きた変化にも向き合えば、例え最初のゴールとは違っても、納得のいく成果となるはず、と。
どんなに対話を重ねても、関係性を築けない、もしくは変えられない時は、諦めてもいいし、逃げてもいいと私は思います。
でも、対話を続けたことが思わぬ別の関係性を築くこともある。
それもまた対話の力であり、人生の不思議です。