「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

物事の価値を築くのも、やはり人との関係性だ

今日の材料:関係性、発信すること、対話すること、価値を築く

前々回、前回と2回にわたって身近なトラブル経験の記事を書いたのですが、皆さまからコメント&ブクマコメントで温かい励ましと労いの言葉を頂き、とても力になりました。

この場を借りて、心からお礼を申し上げます。

 

消費者として考える、モノやサービスの価値とは①  

消費者として考える、モノやサービスの価値とは②

 

今もなお、あまり読み返したいとは思えない苦い経験です。でも、自分では情けないとしか思えなかったことに共感してくださったり、励ましてくださったりした皆さんの存在が、私をさらに前向きにしてくださいました。

モノやサービスの価値は人によって決まる、と記事の中でも書きましたが、この経験それ自体も、私自身が今後どう生きるかによってその価値が決まるものなのかもしれません。

記事にしたことで皆さんが言葉を投げかけてくださり、これからまたその価値を一緒に築いてくれるような気がします。やっぱり対話ってすごい!これまで以上にそのことを確信しました。

実は、記事を通しての対話が目に見えるカタチでこんな価値をも生み出してくれたのです。

 

www.my-manekineko.net

 

いつも役立つ記事を書いてくださるまねき猫さんですが、前回の私の記事を読んでコメントでこの「次世代住宅エコポイント」のことを教えてくださいました。記事に書いた実家の給湯器(エコキュート)工事が対象になるようで、おかげ様で申請に間に合いました。

3月末までの〆切間近でしたが、前回の記事でもご紹介した工事会社の方が早急に対応して下さいました。本当に有難かったのですが、何より教えてくださったまねき猫さんに、心から感謝いたします!

まさに、ブログを通じた関係性が生み出してくれた素敵な価値です。

改めて、今回のような苦い経験こそむしろ発信、対話を積極的にした方が良いんだろうな、と思いました。

でも、辛いことにはむしろ向き合いたくない、考えないように目を背けてしまうということも身を持って実感した事実です。特に人との関係性が絡んでくると、ますますその傾向は強くなるような気がします。結果として、(可能なら)その関係性を断ち切るか、貝のように口を閉ざすか・・・いずれにしても発信や対話とは真逆の方向に行ってしまいます。

「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある 】という記事で書きましたが、どんな時にも揺るがない確固たる自分などというものはなく、今ここで誰とどういう関係性にあるかによって、自分の存在はコロコロと変わってしまいます

ほんの少し前の自分が、今はこうやって前向きにブログを書いているような私自身のことを、「ただキレイ事を書いているだけの人」にしか見えなかった瞬間があったように。そして、その後ろ向きな自分を正直に発信したら、また再びブログを書き始められたように。

上に引用した記事でも書きましたが、関係性の中で一時的に築かれた自分、そしてその自分が解釈しているに過ぎない状況であっても、動かしがたい現実になって自分を縛りつけてしまいます。それでも、別の関係性の中に生きたとき、今度はその現実が自分の行動を後押しするようになるのです。

だからこそ意識しなければならないのは、どんな時でも発信すること、対話することを止めない、ということだけなのかもしれません。

もしかしたら私のように、自分自身の言動に良く言えば強い信念、悪く言えば強い拘りを持っている人間ほど、自分のことを思い切って語ることが必要なのかもしれませんね。

 

 

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「価値」ということを考えてみても、やはりこれは物事に本質的に備わっているものではなく、人との関係性の中で変わりうるものだと実感します。

例えば今回の騒動で思いました。エコキュートを作るメーカーの技術者たちの多くは、きっと新たな技術開発という目に見える華やかな価値に目を向けているでしょう。

でもユーザーは、少なくとも私は、今以上の技術を追求する人や時間の余裕があるなら、壊れないもの、壊れても直しやすいもの、もっというなら修理サービスの技術を追求してくれた方が、よほど価値があると思います。

自分の信念、拘りが強い人ほど積極的に発信や対話をし、「価値」の多様性に気付かなければならないと感じます。

でも価値観が多様であるからこそ、対話をすることが難しいのもまた事実です。一体何が正しいのか・・。これだけ世の中が複雑化すると、もはや憤りすら感じます。

 そんな風に考えていた時、「働く」と「生きる」を考える私の指南役かつパートナーI社での対話インタビューで、製造部門に所属するIさんがこんな風に語ってくれました。

 

会社に入ってちょっと違うな、とか、自分のやってきたことが活かせなくてちょっと残念だなって思う人間ってたくさんいると思う。でもある時、機械がお客様のところで止まったりとか、困ってるお客様が私を頼りに相談しにきて、この部品を探してほしい、って。探してきてお客様のところに届けると、営業の人から「お客様に喜んでもらえたよ」とか「ありがとね」とか労いの言葉がぽつぽつとくるようになった。ああ、これが働く目的でもいいんじゃないかな、と。自分が頑張ったことで、人に喜ばれるっていうのは意味がある。困ったら私に相談すればなんとかしてくれるんじゃないか、とか。私も、仕入先さんに頼めばなんとかしてくれるんじゃないか、とか。仲間が出来て、頑張ったことに対して感謝ををされるというのが働く目的の一つになってくる。「ありがとう」でみんながつながっていけば、会社ってきっと良くなっていくんじゃないかな、と。学校でやってきたことが役に立たなくたって、活かせなくたって、別のことで人に感謝してもらえればいいじゃないか、って。

 

私はこのお話にすごく共感しただけでなく、「価値」とはこんなにもシンプルなんだと感動しました。共感し合える仲間がいるという関係性、「ありがとう」と言い合える状況、確かに私自身もそこに大きな価値を感じます。物事の価値はこんなにも単純なことなんです。

働く環境の不確実性、人間関係の複雑さ、仕事の煩雑さ・・。日々の雑事の中ではつい見失いがちになってしまいます。でも私だけでなく、Iさんの考える「価値」に共感する人は多いのではないでしょうか。ほんの少し自分が意識を傾けることで、周りの人と共有できる価値はいくらでも見えてくるのかもしれません。

以前、【「働くということ」を問い直すー自分軸で生きるためにー 】という記事で、「働く」ということを「自分軸を持って生きる」という視点で語りましたが、働くことの価値、働いたことによって生み出される価値もまた、一人ひとりが自分軸を持って生きられるかにかかっています。

でもこの自分軸というのは、決して自分だけで決められるものではない―ということを、I社のIさんの気付きが教えてくれました。

それは人から押し付けられたり強制されたりしても気付けない、こんな風に誰かのストーリーに共感することで気付けることなのかもしれません。

気付きが連鎖すること、これも関係性が築く価値の一つですね。

人との関係性は、大きな負担になることもあるし、大きな価値になることもある―それは生きていく上で、誰もが経験することでしょう。

でもどうせなら、その価値を大事にしたいですよね。

そのために出来ることはやはり、発信することであり、対話することなんだと思います。

 

 

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消費者として考える、モノやサービスの価値とは②

今日の材料:今日の材料:マンション、エコキュート、工事業者、自分の弱さ

実家のマンションで給湯器(エコキュート)が壊れ、修理代が大きくかかるため入れ替えとの検討もしたものの工事会社の対応がひどく、挙句に貯湯器を収納している場所に不具合まで見つかった前回の話の続きです。

 

 

 

 

トラブル5:不動産会社の対応

 

 実家のマンションの管理会社と不動産会社に、「給湯器がキツキツに入っていて新規のものが入らないだけでなく、既設のものを取り出すのも困難」という貯湯庫の問題について連絡しました。ところが驚くことに、ここでも前回同様にたらい回しに逢いました。さすがに私もキレて、「前も同じように言われましたが、これは間違いなく施工の問題だから、不動産会社で対応してください」と強く言いました。

そこでようやく不動産会社の顧客サービス担当者が施工会社の担当者を連れて現状を確認しに来ました。でもその見解は、「工事会社の技術の問題で、出来ないことはない」。

そもそも、出し入れがスムーズに出来ない時点で施工の問題ではないのでしょうか。多少の自覚はあったのか、「工事が出来ないと言った修理業者と確認し、ベストな方法を考えますのでお時間をください」と言って帰っては行きましたが、すでにお湯が出ていないんです。不動産会社の対応には心底がっかりしましたが、もうこちらはこちらで対応するしかないと割り切りました。

(※ちなみに、「お時間をください」と言われてから1か月半経ちますが、未だにそのことに関する連絡はありません。)

 

ネットで見つけた工事業者に助けられました

 

前回の記事でも書きましたが、修理業者への見積もり依頼と同時に別の工事会社を探し始めていました。何の情報もない中でネットで調べると、エコキュート販売と工事はインターネット通販や家電量販店、地元の電気屋さんやリフォーム業者など、大小含めて数多な業者が請け負っており、どう選べばいいのかさっぱりわかりません。しかも複数業者に相見積もりを取っている余裕もないとなれば、もう自らの勘に頼るしかありませんでした。

金額や施工実績はもちろんですが、ここで私が重視したのは業者が発信している情報でした。自社の宣伝だけでなく、エコキュートの工事や使い方、修理対応など、ユーザー視点に立った情報をどれだけ発信しているかということは、その業者の経験の豊富さと、どれだけお客さんの立場になれるかということが見えるものだと思いました。

そこで選んだ工事業者は母体は小さいものの全国に協力工事店があり、エコキュートに関する施工実績も多い会社でした。とにかく電話をしてみると、受付の女性の対応だけでも前の修理業者とは全く異なり、安心できるものでした。

その後、営業担当の方にこれまでの事情を話すと、経験の範囲でわかること、こちらが求めていた情報を的確に教えてくださり、誰も頼れず五里霧中にあった状況の中で本当に救われる想いでした。今回、早期の故障や修理でかなり苦慮したので、設置後の修理対応についてもしつこく事細かに聞きましたが、全てにきちんと答えてくださいました。

工事繁忙期であるため、仮見積もりでこちらが発注の意志を示してから工事担当者が下見をし、金額が変わらなければ正式な発注となる段取りでしたが、お湯が止まってしまったこちらの事情を察して下さり、正式な発注の前にすぐに仮で工事日程を組んでくれました。

この工事業者の工事スタッフが貯湯庫を確認した結果、やはりキツキツで給湯器に多少傷がつくことは了解してほしいけど、使用には支障がないものだということ、また配管は既成のもので万が一傷つけても直すことが出来るので、鉄柱は動かさなくても工事は可能という判断でした。営業担当の方からは、「工事が不可能とお断りすることもある」と聞いていたので、心底ほっとしました。

ようやく出口が見えてきました。その時点で工事日まで2週間近くあったものの、工事繁忙期に相当頑張ってくれた結果です。正式に発注し、あとは商品の納品を確認してもらうだけでした。

 

ここで大団円・・とはいかなかった

 

ところが、ここまで来て商品の納品が間に合わないということが判明しました。営業担当の方は、水漏れのリスクが大きいマンションの上階には絶対にあった方がいい緊急停止機能がついている機種を紹介してくれたのですが、その商品は受注生産で納品に1か月半以上かかってしまうことがわかったのです。

その他の商品であれば工事には間に合うけど、この機能は絶対に必要だと営業担当の方は言います。でも、他のメーカーで同じ機能を付けると、価格が大きく上がってしまう、と。

恐らく「売ること」だけを考えれば、間違いなく他の商品を進めてきたでしょう。でもこの営業担当の方はそうはしませんでした。それまでいろいろと相談に乗っていただいた過程で、その人が「お客さんが日々の生活の中で安心してお湯を使える」ということを一番大切に考えてくれていることが本当に伝わってきました。それは設置するだけで終わることではないのです。

とはいえ、真冬に高齢の両親がお湯無しでこれ以上長期に過ごすことには限界がありました。苦渋の決断で、ヒートポンプだけを交換することにしました。結局発注には至らなかったにもかかわらず、営業担当の人は修理の値引き交渉や、個人より管理組合に相談して対応した方が良いといったアドバイスまでしてくれました。

一方でマンションの管理会社などはただ話を聞くだけで、「ヒートポンプを交換すれば直るんですよね」などと言ってきましまた。15万円かけてもその後の保証もなく、修理する業者も信用できず、しかもいつかは必ず壊れて交換する必要があるのに、その時業者が見つかる保証もない。そんなこちらの事情は全く眼中にないのです。

いかに相手の立場になれるかということは、個人の器量なのでしょうか。それとも会社の環境なのでしょうか。いずれにしても、結局モノやサービスの価値を決めるのはそれを扱う人なんだ、と改めて実感しました。

 

そして、どんでん返し

 

そこから、まさかの展開が待っていました。「壊れたら必ず御社にお願いします」とお世話になった工事業者にお断りを入れた翌日、営業担当の方が連絡をくださり、「あれからも探してみたら、あったんですよ!ある倉庫に!」と。「もちろん、修理依頼のキャンセルが出来るか、それをされるかどうかはお客様次第なのですが・・」と言ってくださいました。

運良く私の方の都合で修理業者への依頼はその電話が来る直前にしていたため無事キャンセルすることが出来、新規入れ替え工事が出来ることになったんです。

しかも、その営業担当の方はその日、休日だったにもかかわらず、手配業務をしてくださいました。仕事に信念を持って働いている、こういう人こそが自分軸で生きている人だと心から思いました。工事の日までは不安もあり、対応についてもまたいろいろ質問してしまったのですが、いつでもきちんと答えてくださるだけでなく、「お任せください!」と自信を持って言ってくださいました。感謝だけでなく、尊敬の気持ちでいっぱいでした。

 

工事は無事に終了し、お湯が使えるようになりました

 

当日、工事スタッフの方々も感じの良い方たちで、思った通り既設のエコキュートを搬出するのには相当手間取ったものの、根気よく対応してくださったおかげで無事工事は終了しました。

実はこの日、工事のことを連絡した管理会社と不動産会社の担当者が「参考のために」と視察に来ました。私たちのためではありません。今後同じようなことが起こったときの対処のためです。

聞けば修理業者の対応の問題はうちだけではなかったようで、私が自分で探した工場業者の対応が良さそうなので今後も紹介させてもらいたいと言っていました。

もちろん、一連のことに対するこちらの考えは全て話しましたが、「申し訳ありません」というだけです。私たちはただの実験台みたいなものですよね。ハラワタが煮えくりかえるとはまさにこのことです。でも結局「大きい会社」という安易な判断基準で不動産会社を選んだ私たちの責任でもあるのでしょう。せめて今回の経験が、誰かの役に立てばと願うだけです。

 

 

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人生はドラマかと思う・・まさかの展開

 

実はこの話、これでは終わらなかったんです。

無事に工事が終わり、管理会社の担当者も不動産会社の担当者も帰っていったのですが、後から不動産会社の人が戻ってきました。

「実は、今回の製品に今日、メーカーからリコールがかかりました。ヒートポンプの不良が発覚したそうです。先ほど工事業者が持ち帰った壊れたヒートポンプを回収させてもらえませんか」

工事の当日にリコールって・・・。仕組まれていたのかとすら思えてしまいますが、「やはり欠陥品だったのか・・」というオチです。でもその不動産会社の担当者は根拠もなく「今回のお客様の不具合とは関係ないということはわかっているのですが」ということを言っていました。どこまで責任回避したいんでしょうか。

そして、その日から約1か月経ちますが、メーカーからも不動産会社からも何の連絡もありません。あんなに苦労して、結局全て自分で対応して、その問題のヒートポンプはリコールがかかった・・。こちらがどれだけ悔しい気持ちか、想像するのはそんなに難しいことではないと思います。

昨今の新型コロナウイルス問題でいろいろと対応が難しくなっている可能性もありますが、これまでの対応から考えても、こちらが何も言わなければ何も連絡はないかもしれません。もはや残念を通り越して、全て忘れたい、なかったことにしたいとすら思ってしまいました。

 

結局、自分の弱さを嫌というほど知った

 

文章がだんだん後ろ向きになっていることからも伝わるかもしれませんが、今回のことは相当に堪えました。あまりに辛くて、自分がこれまで「自分に向き合おう」とか、「想いをきちんと伝え合おう」とか書いていたことが全て綺麗ごとで現実離れしているように思えてしまいました。

本当に情けない話ですが、ブログを書くのも読むのも辛くなってしまって・・。実は前回記事を書いた後も、また思い出すのが辛くなって記事を書き進められない上に、思い切って別の話題にしようとしても、やっぱり書けなくなってしまいました。

これまで、年齢なりにいろいろな経験をしてきたつもりで、それなりに肝が据わってきたつもりでした。でも今回人の対応に泣かされ、こちらがどんなに状況や想いを話しても、伝わらなかった・・。結局何も納得できないまま終わってしまい、人が信じられなくなっただけでなく、自分自身がこんなにも弱かったのか、ということも嫌と言うほど思い知りました。

回収されたものがどうなったのかを問い合わせられなかったのも、また相手の対応に傷付けられるのが嫌だったからです。もう何もかも忘れたくなりました。

「対話が大事」と何度も書いていた私が、こうですからね・・。

でも少し時間が経ち、情けない自分のことも含めて全て書けなければ、「書くことに信念を持つ」とは言えない、と思い直しました。メンタルが弱くて切り替えが出来ない、そんな自分には嫌気がさしますが、だからこそ続けなければ何も変わりません。

答えは出ないかもしれないけど、きちんと言うべきことは言おうと思い、不動産会社の担当者に回収したヒートポンプの検査結果をきちんと報告してもらえるように連絡しました。

ちなみに工事は無事終わり、お湯もきちんと出ています。それが決して当たり前でないことに気付けたこと、ネット情報でも真摯に対応していただける業者を見つけることは可能だとわかったことが、この経験を前向きにとらえさせてくれると今は思っています。

自分が書いてきたことは決して簡単に出来ることではないと、改めて自覚しました。だからこそ、ダメでもまた向き合っていかなければならないということも。そのことを心に持ちつつ、また頑張って書いて行こうと思います。

 

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消費者として考える、モノやサービスの価値とは①

今日の材料:消費者、モノやサービスの価値、エコキュート、マンションの施工

今年に入ってから消費者としてちょっとしたトラブルに遭い、モノとかサービスの価値について深く考えさせられました。少し長くなりそうなので数回に分け、経験とそれについて考えたことを記事にしたいと思います。

個人の忘備録として詳細に書くつもりなので、あまり興味がない方もいたら申し訳ないですが、もしかしたらどこかで誰かのお役に立てばいいなと願っております。

事の発端は昨年末から、実家の両親が「お湯の調子が悪い」と言い始めたことです。

7年ほど前に今後の生活の不便さを考えて長く住んでいた家を離れ、新築マンションに移り住んだ両親はもう80歳前後。ややこしい手続きは難しいらしく、よくヘルプの声が上がります。

今回は「給湯器が壊れた」ということで、普通に考えれば直せばいいというだけの話ですが、私たちの当初のその予測は見事に裏切られました。結局、今年に入ってから1か月半以上どっぷりと悩ませられる出来事になりました。。

 

 

 

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エコキュートというシステムをご存じですか

実家の給湯器はエコキュートという2000年以降に開発された比較的新しいシステムです。その特徴は電気代のかからない夜中にお湯を沸かし、大きな給湯器に貯湯して昼間にお湯を供給するというもので、エコで電気代の節約になることが売りです。マンション購入を検討していた時期は東日本大震災のすぐ後だったので、断水した時でも貯湯されている水が使えるということもかなりアピールされた記憶があります。

モノを買うときはたいてい、こういうメリットばかりを強調されますよね。でもエコキュートは初期費用が非常に高いことや、貯湯する給湯器が大きくそれなりのスペースを必要とするというデメリットもあります。私はモノを買うときはあえてデメリットを聞くようにしているのですが、実家のマンション購入の際は考えることが多すぎてそこまで頭が回りませんでした。

最初にエラー表示が出たのは昨年の夏。その時はすぐに直ったものの、保証の5年を過ぎていたので出張料に技術料、部品代で2万5千円弱かかりました。その後年末になり、エラー表示はないものの今までと同じように使っているのにお湯が足りなくなったり、昼間に頻繁に湧き増しがかかるという事態が続いたようです。

両親はお風呂に入るのも気を遣う状況でした。

 

トラブル1:メーカー指定の修理業者の対応

実家のエコキュートは誰もが知る大手メーカーの製品。昨年末から続く不具合で、今年に入ってすぐにその相談センターに電話して、指定の修理業者が来ることになりました。私も立ち合い、修理スタッフが一通りリモコン操作したり給湯器やヒートポンプ(お湯を温める室外機のようなもの)を見てくれたものの異常なしとの診断。「多めのお湯を作るように設定を変えて様子を見てください」と言われ、今回も出張料と技術料をしっかり請求されました。

半信半疑だったものの、異常がないと言われれば仕方ないので様子を見ることに。でも不具合は解決せず、もう一度メーカーに電話して同じ業者に手配をしてもらうことになりました。ところが修理費用について確認すると、前回来てもらって解決していない問題なのに今回も新たに出張料や技術料が請求される、と受付の女性が言うのです。それはおかしいですよね、と言うと、その女性は何がおかしいんですか、逆ギレ。

呆れながらも話し続けると、しぶしぶ「メーカーに相談します」とのことで、その後メーカーから当たり前のように一連の修理代は一度の請求になると確認しました。日常的に修理依頼を処理している受付がきちんと対応できないことも問題だけど、そのことにメーカーが全く危機意識を持っていないことの方がもっと問題だと感じました。不安を覚えながらも修理に関してはメーカー指定の業者を使うしかないらしく、何かあったら直接メーカーに聞けるように担当者の連絡先を確保しました。

 

トラブル2:その修理業者が故障を特定できていなかった

前回の訪問から約10日後に2人目の修理スタッフが来て点検をしたところ、即座にヒートポンプの故障を特定しました。なぜ前回の人が特定できなかったのかを聞くと、「たくさんのメーカーを扱っているので、その製品に詳しくない者もおりまして」と。

は?だってメーカーが指定したんですよ、オタクを。

しかも、今回のヒートポンプ故障、基盤に関わる部分で修理が出来ず、ヒートポンプそのものを交換する必要があり、修理代は15万円かかるとシレっと言われました。

は?まだ7年も使っていないのに15万?

しかも、ヒートポンプだけ替えても給湯器と新旧の相性が悪いので、どこまで持つかはわかりません、と。修理保証は3か月、しかも交換したヒートポンプの保証のみだというのです。すでに給湯器の方も昨年夏一度壊れているし、今後また修理代がかさむ可能性はかなり大きいです。

納得できない部分が多くきちんと確認したいし、総入れ替えすることも比較検討する必要があります。でもその修理スタッフは何を聞いても返事はあやふや、修理見積もりも大雑把にしか出そうとしないし、挙句に総入れ替えと比較検討したい旨話すと、「それは(マンションの)管理人さんに聞いてください」と。恐らく大口の顧客対応しかしていないのでしょう。

話にならないので、まずヒートポンプ故障について再びメーカーに問い合わせました。メーカー担当者が修理スタッフと技術担当者に確認したところ、今回の故障は経年劣化で使い方の問題ではないけど、保証は5年なので実費。「あまりに壊れるのが早い」といくら訴えても、「機械なのでそういうことも」と言われたら何もできません。15万円も支払って後の保証もないなら、全て入れ替えて10年くらいの保証を付けて安心して使えた方がいいんじゃないか、と考えて聞いてみると、修理見積もりは出せるけどメーカーは直接個人からは見積もり依頼を受けられないと言われました。

 

トラブル3:マンションに既設の設備でも、入れ替え対応はしてもらえない

困り果てて、マンション設備のサポートセンターに問い合わせてみても、「マンションの専有部分はお客様の所有物なのでお客様の方でご対応ください」と。そこで管理会社に問い合わせてみると、規約上は給湯器のメーカーや工事会社の指定がないからどこでも良いけど、機能的な仕様については不動産会社に聞いてと言われました。そこへ電話すると、「2年以上経った物件については設備のサポートセンターへ」と。1周廻って戻りました(笑)。絵にかいたようなたらいまわしです。

例えばエアコンとか冷蔵庫など、自分で買ったものであればすべて迷わず自分で処理しますよね。でも今回はマンション購入時から既設のものであり、しかも貯湯庫はアンカーや配線など特殊の工事が必要になります。既設のメーカーを使った方がいいのか、それ以外のものでもいいのか、どこの工事会社に頼んだらいいのか、自分では判断できないと普通は考えますよね。でもそうしたことに対して、大手にはありがちな無駄に窓口が多い売主の不動産会社も管理会社も、誰も応えてくれなかったのです。

1周廻って戻ってきた設備のサポートセンターで、「どこに電話してもたらいまわしです」と言うと、オペレーターの人が同情してくれたのか「一般論になりますが・・」と前置きした上で、アドバイスしてくれました。規約上制約がないなら自分で工事会社を探し、貯湯庫を見てもらってどのメーカーを使うかを相談するといいのでは、と。自分でやるしかないのは同じでも、そういう方法でアプローチすればいいとわかっただけでも助かりました。

修理業者は信用ならないものの、全棟合わせて300世帯近いマンション全世帯を担当していることもあり、管理会社に確認した上で個人として入れ替え工事の見積もりをお願いしたいと頼みました。同時に別の工事業者に相見積もりをお願いすることにしました。

 

トラブル4:貯湯庫の問題で、入れ替えが困難と判明

まず修理業者に入れ替え工事の見積もりをしてもらうため、給湯器が入っている貯湯庫を確認してもらったところ、今度は給湯器がキツキツに入っているという別の問題が発覚。このままだと新規のものが入らないだけでなく、既設のものを取り出すのも困難だというのです。確かに素人目にも右に配管、左は水道メーターを取り付けるための細い鉄柱がそれぞれほとんどピッタリくっついていて、高さも奥行きもある給湯器を取り出すのは相当困難だとわかりました。明らかにマンションの施工の問題です。

後日改めて修理業者の入れ替え工事担当者が見に来ましたが、やはりかなりリスクの高い工事になるとのこと。見積もりもなかなか出て来ず待たされた結果、電気メーターのついている鉄柱をずらす追加工事が必要で、2,3日かかると言われました。ただでさえ個人で頼んでいるのに余計な費用までかかり、総額は目が飛び出るようなもの。しかもマンション施工に関わる工事をするというのに、そのことをどこにどう確認したかも明確にしてくれない、とてもじゃないけど任せられない業者だと思いました。

解決の糸口が見えない中でとうとう完全にエコキュートが止まり、両親は1年で一番寒いこの時期にお湯が使えないとう状況になりました。

まさに泣きっ面に蜂な状況で、八方塞がりでした。

 

続きは次回。ここまでの経験で私が考えたこと

長くなったのでこの後の展開は次の記事にしますが、この時点で全く先が見えず、特に母親が心身共にバランスを崩していたし、私自身も息子の登園拒否と重なってかなり参っていました。

震災被害などを考えれば、お湯が出ないなんて大したことではない!と当初は前向きに考えていたものの、解決の糸口が見えないとなると思った以上に堪えます。普段当たり前のように整備されている生活インフラ、なくなって初めてその大切さに気付くものなのかもしれません。

その一方で、その生活インフラのど真ん中にある住まいや設備を担う人たちと関わり、そこで露呈する価値意識とその違いが引き起こすトラブルに巻き込まれたことで、消費者としてモノやサービスの価値って一体なんなのか、深く考えさせられました。

例えば今回、マンションの管理会社の担当者などは要所要所の話を聞くだけで、「ヒートポンプを交換すれば直るんですよね」と言ってきました。確かにお湯が出ないという今の状況は一時的には解消されるかもしれませんが、決して安くはない修理費用です。その後の十分な保証もないし、修理業者に対する不信から、そもそも本当に直るのかという不安さえったのです。

さらに言えば、いつかは必ず壊れて交換する必要があるのに、貯湯庫には明らかに問題がある。そのことについて明確な対応も見えないまま問題を先送りしようとすることの意味が私には全くわかりませんでした。住まいに関わる人たちにとってのモノやサービスの価値って、住んでいる人が安心して暮らせるということではないのでしょうか。私には、ここまでに関わってきた人たちにそういうことが眼中にあるようには全く見えませんでした。

では、消費者である私たちはどうなのでしょう。今回、やたらと窓口の多い不動産会社で誰もが口を揃えて「お客様の方で対応してください」と言うのはどうしてなんだろう、とふと考えたとき、思い浮かんだことがありました。

恐らく何かを言えば、自分の責任にされてしまうという意識が働いたんだと思うのです。もしくはそういう教育を受けているのかもしれせん。それはきっと消費者側が何でも「お前のせいだ」と責任を転嫁しようと姿勢があるからなのではないでしょうか。

消費者である私たちが「お客様は神様だ」と自分たちで考えることもせず、何かあれば全て相手のせいにしようとすれば、必然的に提供者は防御線を張ってしまうでしょう。そうすることで、結局モノやサービスの質は改善されるどころか低下する一方です。思起こせばマンション購入時も、「重要事項の確認」と称して後から文句を言われないような説明と確認に異常に時間をとられました。

本来ならそんなことに時間をとるより、どうしたら快適な住まいと環境を維持できるのか、という対話を出来る場を作った方が、ずっとその価値は大きかったはずです。そもそも供給者と消費者の信頼関係さえあれば今回のような問題でここまで苦しむ必要はなかったと思うのです。

実際に、「一般論ですが」という前置きをしつつもアドバイスをしてくれた設備のサポートセンターの方のおかげで、私は一歩前に進むことが出来ました。問題に対して責任を擦り付け合うだけでなく、お互いの知識と経験を活かして話し合えば、モノやサービスの価値は上がっていくはずです。

一人ひとりがほんの少しでも意識を変えれば、それは決して難しいことではないはずです。実はこの後、こういう価値観を共有することは不可能ではない、と思える出会いがありました。

続きは下記からどうぞ。

 

kiki-sh.hatenablog.com

 

 

 

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新たな学びを生むために、一人ひとりが出来ること

今日の材料:学校教育、意識転換、対話、発信する勇気

前回、【未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える― 】というタイトルで学校教育をテーマに記事を書いたのですが、それに対してTAKAさん【id:virtue000000】から以下のようなコメントを頂きました。

 

答えを出す→何→受動的/問いを組み立てる→いかに→能動的
という認識ならば、これからの学校教育は問題提起の力を養う場であるべきということになります。それを踏まえて質問なのですが、その様な学びはどの様なもので、どの様に学校教育に取り入れるべきだとkiki_shさんはお考えなのですか?

 

とても興味深い内容なので、今回はそのことを考えてみようと思います。

まず始めに明確にしたいことは、「どういう学びをどう学校に取り入れるか」ということに関しても、どのような文脈にも当てはまる「答え」はない、ということです。

このブログで常々書いてきていることですが学校教育に関しても同じで、どこかにある「答え」を探すのではなく、一人ひとりが目の前で起こっていることに真摯に向き合い、みんなでその「答え」を創っていくという意識を持つことから始めていく必要があると思います。

「答え」ありきで考えることを止めると、必然的に「問い」の方に目が向きます。そして「問い」に目を向けるということは、「相手に理解させよう」という意識を「相手を理解しよう」という意識に変換しようとするものではないかと思います。

前回、「教員もまたいかに学びのプロセスに関わるかを「学ぶ」ことが必要」と書きましたが、こういう意識を持っている先生方はおそらく生徒の話を聴こうとしたり、生徒のことを知ろうとしたりする姿勢を持っているのではないでしょうか。

自分の経験から例を一つ挙げてみましょう。私は予備校で英語を教えていたのですが、英語が苦手な生徒には本当に基礎の基礎から教える必要がありました。それこそ、「助動詞の後ろは動詞の原形になるんだよ」というところからです。

そこである生徒が言ったのです。「助動詞って何ですか」と。

ある先生は呆れかえっていましたが、ある先生はその生徒がこれまでどのように英語を勉強してきたか、ということに興味を持っていろいろ話を聴きました。すると、その生徒は高校で英語の試験問題を教員が全て事前に教えていた、ということを聞かされたそうです。普通に考えれば信じられない話ですが、実際にそういう学校も存在するのです。

「答え」ありきもここまでくると笑い話にもなりません。ただ、そこから対話を続けて行く中で、その生徒はかなり時間がかかったものの、最終的には難しい文法もしっかりと理解できるほどの英語力をつけたことを私自身が目の当たりにしました。

このストーリーを「対話」という”方法”と「成績が上がった」という”結果”だけ結び付けて考えるとしたら、「そんなにうまくいくはずがない」ということになるでしょう。

でも、これもこれまでのブログで書いて来ましたが、一人ひとりの変化や成長の道筋は、その個人の物語の中でしか説明できず、単純な因果関係ではないのです。だからこそ、学校教育においても様々な人が関わり、そのプロセスで関わる人自身もまた自己を顧みながら根強く対話を続けて行く必要があると思うのです。

 

 

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学習指導要領で「何を教えるか」ということを明確にしていますが、そのこと自体は否定すべきことではないと思います。

全く知識がない子供たちに突然「問いを立てなさい」というのはまず不可能です。識者たちが考え抜いた学習目標を教育の指針とすることは、決して無駄なことではないですし、行動する上での最初の目標になるでしょう。

ただ【未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい】という記事でも書いた通り、目標はあくまでも行動のきっかけにすぎません。教育の現場を生きている教員には何がベストかを見極めるためにより裁量が与えられるべきだと思いますし、その一方で教員としての在り方を常に振り返る場が必要だと思います。

もう何十年も前になりますが、私が非常勤で学校教員をしていた時の教育現場はあまりにも閉鎖的で、他の先生が何をどう教えているかを共有する機会はほとんどありませんでした。今はもっと改善されているのかもしれませんが、教員同士の対話の場を作るということは仕組みとして作るべきだと思います。

その一方で、学校という現場にはいろいろな闇があることもまだ現実でしょう。学級崩壊ということが叫ばれるようになって久しいですし、各種の圧力が加わることでモチベーションが下がってしまう先生も多くいることは察して余りあります。そういう中で何がベストか、となると、私のように現場を知らない人間が気軽に話せるようなことではないということは承知しています。

こういった状況を少しでも改善するためにも、教育行政という場でこそもっと対話の場を意識的に作っていくべきだと思います。特にそういう場では境界をなくし、親や地域を巻き込んで、「答え」を出すのではなく長期的に対話を続けて行くことを目的とすることを考えるべきだと思います。

どこかに対して一方的に苦情を言うのではなく、一人ひとりが主体性を持って学校教育に関わっていく姿勢を見せることこそ、将来的に子供たちが「問いを立てる」ことに価値を置けるようになるための最大のきっかけになるのではないでしょうか。

学校教育とは関係ないのですが、実は私自身が今、消費者としてトラブルの渦中におりまして、そうはいってももう巻き込まれたくないと思うほどストレスフルな経験をしております。

こう書いてはみたものの、もはや逃げ出したくなるほどの日々の苦労を抱えている学校教育の混沌とした現場を想像すると、非常に苦しい気持ちになります。それでもやはり、考えることを止めてはいけないように思えます。

発信する勇気を持ち、一人でも二人でも仲間を見つけ、小さなことからでも変えて行く努力を一人ひとりがしていくことが、きっと何かを生み出すと信じています。

 

 

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未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える―

今日の材料:学校教育、学びの創造、社会生活、いかに学ぶか

 

40代半ばの私の子供時代、日本経済はまだまだ活発で、高校生になる頃まではいわゆるバブル景気真っ只中でした。大量生産、大量消費経済の中で、物事の標準化や均質化にこそ価値が見出されていた時代です。今思えば、教育カリキュラムもいかに標準的、均質的な知識を身に付けられるかに重きが置かれていたように思えます。

それは学ぶ側の視点ではなく、教える側の視点ともいえるでしょう。子供たち一人ひとりに「何を学んでもらいたいか」より、先生が「何を教えるべきか」の方が明らかに先行しました。だからこそ「何のために勉強をするの?」は、子供の「質問あるある」だったように思えます。

そして、この状況は今も根本的には変わっていないと思います。

確かに、教育カリキュラムの内容は少しずつ変わってきました。私たちの頃にはなかった生活科の新設、さらには自分で学び考える「生きる力」を育むといった文言が、学習指導要領で表現されていることは良く知られています。

でも結局、学校が「知識を伝達する場である」という枠組みはあまり変わっていないように思えます。取捨選択を考えなければ「知識」はネットでいくらでも手に入るこの時代、今こそ学校という場が持つ価値をより深く問うべきと感じます。

最近よく、「協同学習」や「学び合い」という言葉を耳にします。そこでは、知識は一方的に伝達されるものではなく、グループでの課題達成といった実践的な関わりの中で創造的に学ばれると考えられています。

学びの創造性は、学校教育の価値になりうると思います。

ただこうした教育の在り方は、教員の関わり方によって大きな批判の対象となることもあります。その批判の中心にあるのは、「学び」を生徒任せにするという放置の姿勢です。「学び合い」や「協同学習」というなら、教員もまたいかに学びのプロセスに関わるかを「学ぶ」ことが必要です。

ちなみにこうした活動は「アクティブ・ラーニング」とも表現されますが、「アクティブ」となるのは多くの場合生徒であると理解されています。学校を「学びを創造する場」へと変革するなら、教員こそ自らどう関わるべきかを「アクティブ」に学ぶ主体であるはずです。

さらに言うなら、学校だけでなく家庭や地域社会もまた「アクティブ」な学びの主体であるはずです。子供たちの学びのプロセスをいかに創造していくか、そのためにそれぞれがいかに関わり合っていくのか、常に問いを立てて考え続けて行く必要があると思います。

教育の現場ではさまざまな取り組みが試されてはいるものの、こうした関わり合いがうまく機能せずにまだまだ混沌としています。

でも、そのモヤモヤは必要なものだと私は思います。【「そもそも」論・再考】や【「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由 】という記事でも書いているように、「答え」を探すことより考え続けることにこそ意味があるからです。

親として、もしくは今後、学校や地域の中でも何か役割を得ることもあれば、それぞれの立場から「アクティブ」に学び、取り組んでいきたいと思っています。

 

 

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「何を教わるか」より「いかに学ぶか」を考えることは、子供たちが社会に出てからその結果がより顕著に表れるように思えます。

「働く」と「生きる」を思考する私の指南役かつパートナーでもあるI社【☆参照】で先ごろ対話インタビューをしていた時、入社5年目のNさんがこんなお話をしてくださいました。

彼は入社して2年目をピークに、入社説明会で聞いて想像していた仕事とあまりに違うことで、会社を辞めたいとすら思うようになりました。先輩や仲間と日々の対話を通して物事を解決したり改善したり出来ると期待していたのに、自分じゃなくても出来る仕事を日々こなさなければならなかったからです。このまま何十年と働き続ける自分を想像することが出来ませんでした。

悶々としながらも仕事を続けて3年目となり、これまでやってきた工程とは違うある種の「結果が見える」仕事をしていた時、ふと自分の会社が作っている製品に興味を持ち始めました。製品のことを知りたいという気持ちは、自分がその仕事の中で何が出来るかを考える、というところにもつながっていきました。

3年目のその仕事は最初の仕事に比べ、社内で他の部署の人たちとも交流がある仕事でした。彼はその後さらに異動によって今度はお客様とも関わる仕事に携わるようになり、現在は新たなやりがいと課題にも直面しています。でもその多様な関わりの中で、彼は自分がI社の中ですべきこととしっかりと向き合えるようになっていました。

Nさんはこんな風に話しています。

 

最初の3年っていうのは、自分で考えてうちに秘めて、口に出さないだけの時間がただ過ぎていって、それを周りのせいにしていた。最近は思ったことを相談したり口に出したりすることで、周りの人の意見も聞けるようになってきた。自分で思うことを意見しないと周りの意見も聞けないし、自分の考えが間違っているのかあっているのかもわからない。

振り返ったり、周りの意見から自分が学ぶことも多くあるし、自分の中の小さい器ではだめなんだな、と。いろんな角度の意見を聞くことで、自分がやるべきこと、やらなければならないことも見えてくると今は思う。

 

新卒の社員が入社後の一定期間で会社を辞めてしまうという問題は、いろいろな場で耳にします。その理由は様々だとは思うのですが、「いかに学ぶか」に関する経験の少なさが大きく影響しているように思えます。

もちろん、いわゆるブラック企業のような会社で心と体を壊してまで会社を続けるべきではありません。「自分を守る」ということは、働く上で最も重要な判断基準です。ただそれとは違う状況では、「いかに学ぶか」という経験が大きく影響するように思えます。

学校教育の中で「何を教わるか」を重視しすぎると、学ぶ側はやり方さえ知れば必ず「正解」がどこかにあると思うようになります。でもNさんのように、日々のモヤモヤを越えてふと振り返ったときに見つかる「学び」はどこかにあるものではなく、自分の試行錯誤や周りとの関わりの中で自分自身が作り出すものです。

当然その方法は事前に想定できるものではなく、I社での勤務経験を通してNさんが自分に向き合い続けたことで得られたものでしょう。

I社という会社は、こうした学びを社員任せにすることなく関わり続ける会社です。部署の上司にとどまらずさまざまな人が彼の成長を見守り、真剣に議論をするのです。上司として自分たちがいかに関わるかもまた、常に問い直します。一人ひとりの成長こそが会社の成長であるいう信念があるからこそ、互いの学びと対話を続けて行くことを重視することが出来るのだと思います。

自分が、もしくは部下が「いかに学ぶか」を考えたり介入するということは、会社の規模に関係なく一人ひとりが自分の立場で出来ることです。会社そのものの変革にはもちろんたくさんの要因が絡んできますが、個人としてはどんな経験からも「学ぶ」ことは必ずあります

学校教育の中でもその後の社会生活でも、「いかに学ぶか」を問い続け、学びの創造性を広げていくことが、一人ひとりの「働く」と「生きる」を豊かにする未来につながっていくと私は思っています。

 そんなことを考えながらも 、新学期に入ってまた登園をしぶる息子と一緒に私も「学ぶ」ことばかりの毎日です・笑。

 

 

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一人ひとりの主体性が、持続可能な社会を作る

今日の材料:持続可能な社会、主体性、責任の所在、小さな成功

 

「持続可能な(sustainable) 」という言葉をよく耳にします。

私が初めてこの言葉を聞いたのは15年くらい前と記憶しています。当時在籍していた大学院の授業で、「持続可能な開発のための教育(ESD: Education for Sustainable Development)をテーマに学んだことがありました。それ以降、いろいろな場で出逢うこの「持続可能な」という言葉がとても気になるようになりました。

実際に国連や関連機関からこの言葉が発信されたのはもっとずっと前なのですが、社会の中で関心を集め、より意味のある言葉として定着してからはそれほど長くないのではないかと感じるのです。

言葉というのは生き物です。太古の昔から人々の生活とは無縁に存在するわけではなく、ある社会環境の中で生み出され、人々に使われることによってその意味を確立していきます。

この「持続可能な」も、このままでは持続できなくなるという危機感が本当に高まってからこそ、頻繁に使われその意味を確立してきた言葉です。この危機感は環境保全問題に端を発し、貧困、人権、平和、開発といった広い視野に立って現在と将来のニーズを考える必要性を訴えるものです。

以前【未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい 】という記事の中で、アフガニスタンで殺害されてしまった中村哲医師のことを書きました。彼の支援活動はまさに貧困からの救いと平和への希求が混在するこの地域で、人々の生活を持続可能とする基盤を開発するためのものでした。

中村医師のような行動は、誰もが真似できることではありません。でも私は、「どんなに不確実な状況であっても行動することに必ず意味がある」と言いたくてこの記事を書きました。それ自体は、決して特別なことではないはずです。

むしろ私たちが考えるべきなのは、自分自身の身近な環境をいかに持続可能とするかです。今の世の中、日々の生活の中で「今後どうなってしまうのか」という不安が全くない人は恐らくいないでしょう。その一方で、その問題に向き合い、行動することが出来る人もまた多くはないように思えます。

一人ひとりが身近な環境を変えて行くために主体的に行動することが、社会全体の持続を可能とする未来につながると私は思っています。

 

 

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私たちが持っているそれぞれに異なる経験や知識は、今後も安定した生活を持続していくためにとても重要なものだと思います。一人ひとりが主体的に行動し、その経験や知識を十分に生かすことが出来れば、社会を持続可能とするたくさんの知恵が生まれてくると思うのです。

でもこの主体的な行動は、いろいろな理由によって阻害されてしまいます。例えばその一つに、特に日本社会に顕著な責任の所在を追求しようとする傾向があるような気がします。

一つ例を挙げてみましょう。

人間関係の広がりは、ネット(網の目)からノット(結び目)へ】という記事でも紹介した【山住勝広・ユーリア・エンゲストローム編の『ノットワークする活動理論: チームから結び目へ』(新曜社)】(p.41-43)に興味深いエピソードが書かれていました。

それはフィンランドの保健センターのある医者が担当する偏執病(※パラノイアとも言われる妄想性パーソナリティ障害の一種で、不安や恐怖の強い影響を受けるもの)の患者が自宅のドアを開けずに叫んでいた時の、関係者の一連の対処に関するものでした。

関わったのはその担当医の他に患者の後見人、隣人、在宅介護の看護師、地域病院の精神科医、警察官、救急隊員、アパートの管理者でした。そこで、それぞれが持っている情報(例えば後見人が知る患者の生活状況や、担当医が知る健康状態、精神科医が持っている精神病治療に関する知識など)を問題状況の解消のために共有し、最終的に救急隊員や警察が介入して強制的に入院させ治療を受けさせることに成功したというものでした。

普通に読めば、「ふーん、それで?」と思うかもしれませんが、想像してみてください。あなたの身の回りで同じようなことが起こったとき、あなたはどう考えますか。

恐らく私だったら「誰が決定を下すのか」、もっと言えば「誰がその責任を取るのか」ということを考えてしまうと思います。そしてそういう考え方が、自分の主体的な行動を抑制してしまうような気がするのです。

このケースでは、発作を起こしているであろう患者の身の安全と同時に、人権の問題も絡んできます。例えば自分が担当医であった場合、健康状態に問題はなくても精神状態から危険な状況になる場合を考えるでしょう。かといって、個人の生活空間に許可なく立ち入ったり、強制的に入院させるということが法的に問題になる可能性もあるのです。

さまざまな判断基準を複数の人が持っている時、それを総合的に判断できる権限者とは一体誰なのか、その責任の所在が明らかにならずに対応が遅れることは、私たちの日常的な経験からも決して珍しいことではありません

でも、ここで書かれているケースでは意思決定は分散されており、それぞれが自分の立場から主体的に考え、問題状況を解消するという目的を共有して役割を遂行したことで、最終的に適切な対応が出来ました。ここで一人でも、「自分が責任を取りたくないから黙っていよう」という人がいたなら、このプロセスは成立しないのです。

ここまで考えてみて、さらに思うことがあります。

それは、今のような持続可能性が危ぶまれる社会になったのは、このケースのように一人ひとりが主体性を持つことなく、十分な知識や情報を持たぬままに権限を与えられた特定の個人の判断によって、重要な決定が重ねられてきた結果ではないのでしょうか。

そして現在も少子高齢化によって持続可能性が危ぶまれ、さまざまな問題が浮き彫りにされているにもかかわらず、やはりこの「権限を与えられているだけの人間」の判断という状況は変わっていないのではないでしょうか。

その結果、日本の未来はますます混迷を極めています。

一人ひとりが出来ることは確かに小さいかもしれません。でもこの保健センターのケースのように、小さな成功を積み重ねることで、大きな社会を変えて行くことは決して不可能ではないと思います。

まずは声をあげてみるということ、そして身近な問題に対して主体的に関わっていくということを、もっともっと意識していきたいと思っています。

さて、今回が私にとって今年最初の記事となります。私が身近に持続を意識すべきは何よりこのブログです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


 

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今後の自分に向けて、今月を振り返る

今日の材料:書くこと、今後の自分、来年の抱負、想像力

12月に入ったと思ったらあっという間にもう年末。書く力を付けたいと始めたブログなのに更新が全然出来ていません。

自分の時間管理能力を反省するしかないのですが、その一方で12月は「今後の自分」を見据えるための良い機会がいろいろあったような気がします。

少し前に【書くことへの信念は、もう揺るがない 】という記事を書きましたが、私は今後の活動をこれまで以上に「書くこと」を軸に展開していくつもりです。そしてそこには研究と実践という境界を作らず、自分だからこそ書けることを追求していきたいと思っています。

そこで今日は最近の出来事がこの「書くこと」にどうつながっていくのかを書くことで、来年の抱負にしたいと思います。今回の記事は完全に自分の忘備録とさせて頂きます・笑。

 

 

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1.何を書くか

多くの人が変わるには、多様なきっかけが必要だ 】という記事で少しだけ紹介したのですが、私には「働く」と「生きる」を考える上での指南役ともいえる存在の会社があります。

今、一緒にお仕事もさせて頂いているのもこの会社です。日々考え抜いている社長や社員の方々との対話は本当に刺激があり、いくらでも深堀り出来るものです。ブログでこれまで書き綴ってきたさまざまなことは、この組織の日常を通してより具体的な風景として描くことが出来ると思っています。

もともと私が書く力をつけたいと強く思うようになったのも、この会社のこれまでの軌跡やこれからの戦略と開発のプロセスをより多くの人に伝わる文章にしたかったからです。ストーリー化の作業自体はずっと続けてきましたが、今後はより広く読まれる場に出していきたいと思っています。

12月中に会社訪問した際、その決意宣言を社長にもしてきました。

これからのブログでも登場する頻度が上ってくるかもしれません。今年1年の蓄積を花開かせることが、来年の目標です。

 

2.どう書くか

「境界を作らない」と書いたものの、この「どう」は主に研究論文にかかってきます。【「物語」の力をさらに問う―多様性を創造力にするために― 】でも書いたように、私は(客観性を基礎とする)論理性を唯一の判断基準とする論文を書くことがどうしても出来ませんでした。

でも、より多様な研究の在り方を追求する研究者もいます。大学教授であるK先生は、私が「どう研究するか」を考える上でとても大きな示唆を与えてくれました。その先生は「研究者」としての私の指南役であり、今年はいろいろな場でお手伝いさせて頂くことで、今後の私の方向を導いてくれたように思えます。

そしてK先生が主催者の一人である12月のある研究会で、新たな出会いがありました。同じく大学教授であるY先生ですが、理論研究者が多い中で現実の追求にこだわり、方法よりも目の前にある現実をどう表現するかを重視する方でした。その考え方には大きく共感するものがあり、K先生と同じくらい私の研究人生に重要な出会いになるような気がしています。

Y先生は私の記事も読んでくださり「私が普段考えていることと相通じるところが多々あり、大変うれしく思いました」と言ってくださいました。上述した【書くことへの信念は、もう揺るがない 】という記事なのですが、ここで私は『「研究」とは何かということも関係性の中で揺れ動くと書きました。その視点からも、この出会いには大きな意味があるような気がします。

来年改めて論文執筆に挑戦する上で、この出会いを力に変えたいと思っています。

 

3.誰が書くか

当たり前のことですが、書くのは私です。でも私は以前【「私が誰か」は自分だけでは決められない  】という記事で、『「私が誰か」ということは相手との関係性の中で初めて決まるもの』と書きました。

他の誰でもない自分自身を取り巻く関係性の中で、私は生きています。だから自分が書くものも、どうしても自分自身の視点からは逃れられません。でも私はこれまでの人生の中でいろいろな人と出逢ってきました。さまざまな人生のストーリーに触れる中で、少しずつ想像するということが出来るようになりました。

そして今の私にとって最も想像力を要するのが、子育てです。【答えは簡単に見つからない方がいい 】という記事で書きましたが、6歳の息子の子育ては日々が試行錯誤の連続です。息子を取り巻く環境も自分の日常を意識する大切な瞬間ですが、自分自身の活動がどうしても思考力を要するものなので、24時間子供のことを考えることが出来ないことに日々罪悪感も感じています。

時間的にも制約があり、幼稚園を離れた場で友達と遊ばせることもこれまで数えるほどしか出来ていませんでした。それでもこの12月に初めてお友達を家に呼んだり、公園で遊ぶ約束をしてママ仲間ともいろいろ話をしました。そして改めて、日々の葛藤や子供を取り巻く関係性の中にいることもまた私であり、だからこそ書ける文章があると思うようになりました。

力が足りずまだまだ伝わりにくい文章ではありますが、私が書きたいことは誰もが経験している日常をより深く理解するきっかけになるものです。自分がこうした日常の中にいるからこそ、さまざまな読み手を想像する力がついてくるのではないかと思うのです。

自分の日常ともしっかり向き合いながら、これからも書き続けていきたいと思います。

今回はみなさんに読んでもらう記事としての価値はあまりなかったかもしれませんが、最後までお読み頂きありがとうございました。

12月は日々の雑事だけでなく体調も崩し、自分のブログ更新どころかみなさんのブログをお伺いすることもあまり出来なかったのですが、改めてみなさんの文章を読んで元気と刺激をもらいました。

来年はもう少し頑張って、ブログを活性化させたいと思います。

 

 

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