「働く」と「生きる」を楽しむためのレシピ

「人生100年」と言われるようになり、生涯現役がもはや当たり前の時代に突入。一人ひとりが「自分らしさ」を見つけ、ワーク&ライフを楽しむためのヒントについて考えていきます。

自分は変えられるのか、他人は変えられないのか①

 今日の材料:自分を変える、他人を変える、社長評価、意図せぬ「問い」

「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」

カナダ出身の精神科医エリック・バーン氏の有名な言葉です。エリック・バーン氏は自らの心理学理論に基づく心理療法交流分析』を考案した人。『交流分析』は、自分自身、そして自分と他者との交流の仕方を構造的に分析する方法です。心理学の授業やカウンセリング等の資格試験で、必ずといっていいほど紹介されています。

そんなバーン氏のこの言葉、人間関係や生き方などを考える上で、私自身も若い頃からずいぶんと役立ててきました。

でも最近、少し違う思考が芽生えています。それは、「自分」という存在は他人との関係性の中でしかとらえられない、と考えるようになったからだと思います。

そのことは、【「自分らしさ」や「自分探し」という言葉が嫌われる理由 】、【「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある  】という記事でも書いてきました。

もし関係性を問わず揺るぎない「自分」などない、という前提に立つなら、果たして「自分を変える」ことは可能と言い切れるのか。その一方で、関係性という視点に立つならば、自分の影響で「他人を変える」ことは、必ずしも不可能とは言い切れないのではないでしょうか。

そして過去についても、確かに物理的に起こってしまった出来事は変えられません。でも、【自分史を書いてみませんか】という記事でも書いたように、過去はそれを思い出す「今」の自分が創っている部分がとても大きいのです過去は本当に変えられないのでしょうか。

そんなことを考えていた私に最近、過去と関係性を問い直す興味深いストーリーを聴く機会がありました。今回はそのうちの1つをご紹介します。

 

 

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「働く」と「生きる」を考える私の指南役かつパートナーI社のI社長。【多くの人が変わるには、多様なきっかけが必要だ 】という記事で書いたように、20年近く会社の改革を続け、社員たちに気づきと変化のきっかけを与え続けています。余談ですが1年近く前に書いたこの記事、検索で今でも毎日のように読まれているようです。

そんなI社長が改革を始めた時、一方的な改革になってはならないと考えました。そこで社長になってすぐ、無記名で社長評価をしてもらうことを自ら決定したのです。毎年続ける中で、当初はいわゆる「ハネムーン期間」で高い評価を得られたものの、数年後に評価が逆転、支持しない人が半数に上るようになりました。

悩んだ末、I社長は「自分がどう変わるべきか」を部門長たちに相談しました。自分自身の経営行動を見直すための意見が欲しかったのです。でも、その言葉を聞いて評価を見直した部門長たちの反応は、意外なものでした。

これは社長に対する評価ではなく、自分たちが社長の考えや想いを部署の社員たち伝えきれていないことに対する評価なのかもしれない。

社長評価を自分事としてとらえ、自分たちがこの後どうすべきかを考え始めたそうです。その時のことを、I社長はこんなふうに話しています。

予想もしていなかった反応がかえってきたので、驚いたと同時に新たな発見がありました。自分の弱みを見せたことで、それまでとは違った関係性を築けることができたのは、私の人生でいくつかあった大きなターニングポイントの1つです。そのぐらいインパクトの大きい出来事でした。

I社長はこの改革を始める前、一方的な「やらせ」によって社員たちの意識改革に失敗するという苦い経験をしていました。だからこそ、常に社員との関係性を意識しながら、「いかに気づきを与えられるか」を問い続けてきました。

でも、そこまで考える社長であっても、社員から評価を得ることは簡単ではない。経営というのものの厳しさを改めて実感しますが、そんな中で意識された部門長たちとの関係性の変化。そのことが人生の「ターニングポイント」と話すI社長自身にとって、自分の変化を感じる瞬間だったことは間違いないでしょう。

決して意図したわけではないものの、この「助けてほしい」という言葉は、部門長たちを動かす究極の「問い」だったのです。でもこれは、言葉そのものの力ではありません。社長がとことん自分に向き合った上で、発した言葉だったからです。そもそも、自分を評価することを自ら決定できる社長など、この世に一体何人いるでしょうか。

今、I社長は「自分らしい経営ができている」と自信を持って語っています。でもそれは、このストーリーを含めた無数のストーリーの積み重ねでした。この積み重ねの中で今、最初の「苦い経験」すら自分自身の経営行動の原点だった、と感じています。「過去」は違うものとして解釈されるようになったのです。

日常の中で「自分とは何か」に真剣に向き合い、関係性に敏感でいることから生まれた意図せぬ「問い」。そして、それが自分自身や周りの人を変えること。もしかしたらこういう経験、振り返れば、大なり小なり誰にでもあることではないでしょうか。

大事なことは、その経験を振り返り、問い直すことができるかどうかです。省みることができない過去は、変えることはできません。だからこそ、「対話」できる相手を大切にしたり、自ら「対話」の場を切り拓いていくこと。その努力の積み重ねで、初めて過去のある時点から、自分が変わったことに気づけるような気がします。

変化とは、過去を問い直す自らが創り出す産物。そして、その「気づき」が未来を変えていく。そんなふうには、思えませんか。

次回は同じテーマで、違うストーリーをご紹介したいと思います。

 

 

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物事の価値を築くのも、やはり人との関係性だ

今日の材料:関係性、発信すること、対話すること、価値を築く

前々回、前回と2回にわたって身近なトラブル経験の記事を書いたのですが、皆さまからコメント&ブクマコメントで温かい励ましと労いの言葉を頂き、とても力になりました。

この場を借りて、心からお礼を申し上げます。

 

消費者として考える、モノやサービスの価値とは①  

消費者として考える、モノやサービスの価値とは②

 

今もなお、あまり読み返したいとは思えない苦い経験です。でも、自分では情けないとしか思えなかったことに共感してくださったり、励ましてくださったりした皆さんの存在が、私をさらに前向きにしてくださいました。

モノやサービスの価値は人によって決まる、と記事の中でも書きましたが、この経験それ自体も、私自身が今後どう生きるかによってその価値が決まるものなのかもしれません。

記事にしたことで皆さんが言葉を投げかけてくださり、これからまたその価値を一緒に築いてくれるような気がします。やっぱり対話ってすごい!これまで以上にそのことを確信しました。

実は、記事を通しての対話が目に見えるカタチでこんな価値をも生み出してくれたのです。

 

www.my-manekineko.net

 

いつも役立つ記事を書いてくださるまねき猫さんですが、前回の私の記事を読んでコメントでこの「次世代住宅エコポイント」のことを教えてくださいました。記事に書いた実家の給湯器(エコキュート)工事が対象になるようで、おかげ様で申請に間に合いました。

3月末までの〆切間近でしたが、前回の記事でもご紹介した工事会社の方が早急に対応して下さいました。本当に有難かったのですが、何より教えてくださったまねき猫さんに、心から感謝いたします!

まさに、ブログを通じた関係性が生み出してくれた素敵な価値です。

改めて、今回のような苦い経験こそむしろ発信、対話を積極的にした方が良いんだろうな、と思いました。

でも、辛いことにはむしろ向き合いたくない、考えないように目を背けてしまうということも身を持って実感した事実です。特に人との関係性が絡んでくると、ますますその傾向は強くなるような気がします。結果として、(可能なら)その関係性を断ち切るか、貝のように口を閉ざすか・・・いずれにしても発信や対話とは真逆の方向に行ってしまいます。

「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある 】という記事で書きましたが、どんな時にも揺るがない確固たる自分などというものはなく、今ここで誰とどういう関係性にあるかによって、自分の存在はコロコロと変わってしまいます

ほんの少し前の自分が、今はこうやって前向きにブログを書いているような私自身のことを、「ただキレイ事を書いているだけの人」にしか見えなかった瞬間があったように。そして、その後ろ向きな自分を正直に発信したら、また再びブログを書き始められたように。

上に引用した記事でも書きましたが、関係性の中で一時的に築かれた自分、そしてその自分が解釈しているに過ぎない状況であっても、動かしがたい現実になって自分を縛りつけてしまいます。それでも、別の関係性の中に生きたとき、今度はその現実が自分の行動を後押しするようになるのです。

だからこそ意識しなければならないのは、どんな時でも発信すること、対話することを止めない、ということだけなのかもしれません。

もしかしたら私のように、自分自身の言動に良く言えば強い信念、悪く言えば強い拘りを持っている人間ほど、自分のことを思い切って語ることが必要なのかもしれませんね。

 

 

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「価値」ということを考えてみても、やはりこれは物事に本質的に備わっているものではなく、人との関係性の中で変わりうるものだと実感します。

例えば今回の騒動で思いました。エコキュートを作るメーカーの技術者たちの多くは、きっと新たな技術開発という目に見える華やかな価値に目を向けているでしょう。

でもユーザーは、少なくとも私は、今以上の技術を追求する人や時間の余裕があるなら、壊れないもの、壊れても直しやすいもの、もっというなら修理サービスの技術を追求してくれた方が、よほど価値があると思います。

自分の信念、拘りが強い人ほど積極的に発信や対話をし、「価値」の多様性に気付かなければならないと感じます。

でも価値観が多様であるからこそ、対話をすることが難しいのもまた事実です。一体何が正しいのか・・。これだけ世の中が複雑化すると、もはや憤りすら感じます。

 そんな風に考えていた時、「働く」と「生きる」を考える私の指南役かつパートナーI社での対話インタビューで、製造部門に所属するIさんがこんな風に語ってくれました。

 

会社に入ってちょっと違うな、とか、自分のやってきたことが活かせなくてちょっと残念だなって思う人間ってたくさんいると思う。でもある時、機械がお客様のところで止まったりとか、困ってるお客様が私を頼りに相談しにきて、この部品を探してほしい、って。探してきてお客様のところに届けると、営業の人から「お客様に喜んでもらえたよ」とか「ありがとね」とか労いの言葉がぽつぽつとくるようになった。ああ、これが働く目的でもいいんじゃないかな、と。自分が頑張ったことで、人に喜ばれるっていうのは意味がある。困ったら私に相談すればなんとかしてくれるんじゃないか、とか。私も、仕入先さんに頼めばなんとかしてくれるんじゃないか、とか。仲間が出来て、頑張ったことに対して感謝ををされるというのが働く目的の一つになってくる。「ありがとう」でみんながつながっていけば、会社ってきっと良くなっていくんじゃないかな、と。学校でやってきたことが役に立たなくたって、活かせなくたって、別のことで人に感謝してもらえればいいじゃないか、って。

 

私はこのお話にすごく共感しただけでなく、「価値」とはこんなにもシンプルなんだと感動しました。共感し合える仲間がいるという関係性、「ありがとう」と言い合える状況、確かに私自身もそこに大きな価値を感じます。物事の価値はこんなにも単純なことなんです。

働く環境の不確実性、人間関係の複雑さ、仕事の煩雑さ・・。日々の雑事の中ではつい見失いがちになってしまいます。でも私だけでなく、Iさんの考える「価値」に共感する人は多いのではないでしょうか。ほんの少し自分が意識を傾けることで、周りの人と共有できる価値はいくらでも見えてくるのかもしれません。

以前、【「働くということ」を問い直すー自分軸で生きるためにー 】という記事で、「働く」ということを「自分軸を持って生きる」という視点で語りましたが、働くことの価値、働いたことによって生み出される価値もまた、一人ひとりが自分軸を持って生きられるかにかかっています。

でもこの自分軸というのは、決して自分だけで決められるものではない―ということを、I社のIさんの気付きが教えてくれました。

それは人から押し付けられたり強制されたりしても気付けない、こんな風に誰かのストーリーに共感することで気付けることなのかもしれません。

気付きが連鎖すること、これも関係性が築く価値の一つですね。

人との関係性は、大きな負担になることもあるし、大きな価値になることもある―それは生きていく上で、誰もが経験することでしょう。

でもどうせなら、その価値を大事にしたいですよね。

そのために出来ることはやはり、発信することであり、対話することなんだと思います。

 

 

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新たな学びを生むために、一人ひとりが出来ること

今日の材料:学校教育、意識転換、対話、発信する勇気

前回、【未来型人材育成―「何を教わるか」ではなく「いかに学ぶか」を考える― 】というタイトルで学校教育をテーマに記事を書いたのですが、それに対してTAKAさん【id:virtue000000】から以下のようなコメントを頂きました。

 

答えを出す→何→受動的/問いを組み立てる→いかに→能動的
という認識ならば、これからの学校教育は問題提起の力を養う場であるべきということになります。それを踏まえて質問なのですが、その様な学びはどの様なもので、どの様に学校教育に取り入れるべきだとkiki_shさんはお考えなのですか?

 

とても興味深い内容なので、今回はそのことを考えてみようと思います。

まず始めに明確にしたいことは、「どういう学びをどう学校に取り入れるか」ということに関しても、どのような文脈にも当てはまる「答え」はない、ということです。

このブログで常々書いてきていることですが学校教育に関しても同じで、どこかにある「答え」を探すのではなく、一人ひとりが目の前で起こっていることに真摯に向き合い、みんなでその「答え」を創っていくという意識を持つことから始めていく必要があると思います。

「答え」ありきで考えることを止めると、必然的に「問い」の方に目が向きます。そして「問い」に目を向けるということは、「相手に理解させよう」という意識を「相手を理解しよう」という意識に変換しようとするものではないかと思います。

前回、「教員もまたいかに学びのプロセスに関わるかを「学ぶ」ことが必要」と書きましたが、こういう意識を持っている先生方はおそらく生徒の話を聴こうとしたり、生徒のことを知ろうとしたりする姿勢を持っているのではないでしょうか。

自分の経験から例を一つ挙げてみましょう。私は予備校で英語を教えていたのですが、英語が苦手な生徒には本当に基礎の基礎から教える必要がありました。それこそ、「助動詞の後ろは動詞の原形になるんだよ」というところからです。

そこである生徒が言ったのです。「助動詞って何ですか」と。

ある先生は呆れかえっていましたが、ある先生はその生徒がこれまでどのように英語を勉強してきたか、ということに興味を持っていろいろ話を聴きました。すると、その生徒は高校で英語の試験問題を教員が全て事前に教えていた、ということを聞かされたそうです。普通に考えれば信じられない話ですが、実際にそういう学校も存在するのです。

「答え」ありきもここまでくると笑い話にもなりません。ただ、そこから対話を続けて行く中で、その生徒はかなり時間がかかったものの、最終的には難しい文法もしっかりと理解できるほどの英語力をつけたことを私自身が目の当たりにしました。

このストーリーを「対話」という”方法”と「成績が上がった」という”結果”だけ結び付けて考えるとしたら、「そんなにうまくいくはずがない」ということになるでしょう。

でも、これもこれまでのブログで書いて来ましたが、一人ひとりの変化や成長の道筋は、その個人の物語の中でしか説明できず、単純な因果関係ではないのです。だからこそ、学校教育においても様々な人が関わり、そのプロセスで関わる人自身もまた自己を顧みながら根強く対話を続けて行く必要があると思うのです。

 

 

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学習指導要領で「何を教えるか」ということを明確にしていますが、そのこと自体は否定すべきことではないと思います。

全く知識がない子供たちに突然「問いを立てなさい」というのはまず不可能です。識者たちが考え抜いた学習目標を教育の指針とすることは、決して無駄なことではないですし、行動する上での最初の目標になるでしょう。

ただ【未来へ向かう行動の目標は、変化してもいい】という記事でも書いた通り、目標はあくまでも行動のきっかけにすぎません。教育の現場を生きている教員には何がベストかを見極めるためにより裁量が与えられるべきだと思いますし、その一方で教員としての在り方を常に振り返る場が必要だと思います。

もう何十年も前になりますが、私が非常勤で学校教員をしていた時の教育現場はあまりにも閉鎖的で、他の先生が何をどう教えているかを共有する機会はほとんどありませんでした。今はもっと改善されているのかもしれませんが、教員同士の対話の場を作るということは仕組みとして作るべきだと思います。

その一方で、学校という現場にはいろいろな闇があることもまだ現実でしょう。学級崩壊ということが叫ばれるようになって久しいですし、各種の圧力が加わることでモチベーションが下がってしまう先生も多くいることは察して余りあります。そういう中で何がベストか、となると、私のように現場を知らない人間が気軽に話せるようなことではないということは承知しています。

こういった状況を少しでも改善するためにも、教育行政という場でこそもっと対話の場を意識的に作っていくべきだと思います。特にそういう場では境界をなくし、親や地域を巻き込んで、「答え」を出すのではなく長期的に対話を続けて行くことを目的とすることを考えるべきだと思います。

どこかに対して一方的に苦情を言うのではなく、一人ひとりが主体性を持って学校教育に関わっていく姿勢を見せることこそ、将来的に子供たちが「問いを立てる」ことに価値を置けるようになるための最大のきっかけになるのではないでしょうか。

学校教育とは関係ないのですが、実は私自身が今、消費者としてトラブルの渦中におりまして、そうはいってももう巻き込まれたくないと思うほどストレスフルな経験をしております。

こう書いてはみたものの、もはや逃げ出したくなるほどの日々の苦労を抱えている学校教育の混沌とした現場を想像すると、非常に苦しい気持ちになります。それでもやはり、考えることを止めてはいけないように思えます。

発信する勇気を持ち、一人でも二人でも仲間を見つけ、小さなことからでも変えて行く努力を一人ひとりがしていくことが、きっと何かを生み出すと信じています。

 

 

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「自分とは何か」を探るヒントは人との関係性の中にある

今日の材料:自分、他人、関係性、気付き、語り直し

ブログの投稿を積み重ねていく中で、最近は記事にいろいろなコメントを頂けるようになりました。何か新たな思考が生まれるような気がして、対話の楽しさをますます実感しております。

前回の記事でも「自分らしさ」や「自分探し」について、塾パパさんからこんなコメントを頂きました。

他人がいるから自分を認識できるのかもしれません。他人がいなければ自分を認識できないかもしれません。もし世界に自分ひとりしか人間がいなかったら自我は芽生えないのではと考えてしまいます。  

なるほど!確かに、自分を認識する上で他人という存在はなくてはならないものですよね。

実は前回も引用した「”私は誰か”は自分だけでは決められない」という記事の中で、私は「相手」のことを2つの視点から書きました。

一つは「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものということ。

もう一つは、「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているということです。

後者については、なんとなく想像できるのではないかと思います。他人は自分を写す鏡。「あなたって〇〇だよね」と言われることほど、自分自身を認識する上で強く印象に残ることは、なかなかありません。

では、前者はどうでしょう。前回はブログにプロフィールをどう書くか、という話をしたのですが、今日はもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

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「自分とは何者か」を考える上で関係性に焦点を当てるというのは、伝統的な自己分析の方法、いわゆる「精神分析」とは一線を画する考え方です。

 精神分析療法は、良く知られているようにいわゆる無意識の抑圧を解放することによって、問題を解決しようとします。ざっくり言うならば、さまざまな環境要因によって封じ込められていた「本当の自分」を発見し、それを受け入れることによって、葛藤を解消しようとするものです。

それに対して、最近ではナラティブ・セラピーという療法をよく耳にします。【※『物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ 』野口裕二著(医学書院)などを参考にしています。】そこでは問題を自分の中にあるのではなく、関係性によって築かれたものとして一度外在化します。さらにそれを「語り直す」ことによって、問題そのものへの認識を変えるというものです

抽象的なので具体例を挙げてみましょう。

 

新入社員のA氏は、職場で高圧的な物言いをする上司の下で働いているうちに、「我慢するのが会社員」という認識を持つようになった。悶々と毎日を過ごしていたある日、上司とは別の管理職B氏から会社に対する本音を言ってほしいと言われた。そこでA氏が差しさわりのないことしか言わずにいると、B氏は「そうじゃない」と言い、B氏自身が自分の不満を洗いざらい話し始めた。驚きつつもそれなら、とA氏も自分自身の不満もさらけ出した。その経験がきっかけとなり、A氏は自身の「我慢するのが会社員」という感覚を変化させ、やがて上司にも言いたいことを言えるようになった。

 

実はこれ、実際に聞いた話を少しだけアレンジしたものです。A氏の「我慢するのが会社員」という自己認識は、上司との関係性の中で築かれたことは間違いありません。でも、それが当たり前の日常となってしまうと、いつの間にかそのことは動かしがたい現実となってしまうのです。

でもA氏はB氏との対話の中で、その現実を語ること(外在化すること)によって、それが上司との関係性の中で築かれた限定的なものでしかないと気付き、それとは違う「本音を話せる」関係性を見つけ出します。

A氏はこれをきっかけに「我慢するのが会社員」という自己認識を語り直します。上司の高圧的な態度という環境は全く変わっていないのですが、A氏にとって自分の行動を抑制していた問題が問題でなくなり、言いたいことはきちんと言うという新たな自分を築いたのです。

精神分析が「本当の自分」を発見し、それを解放するという自分ベースの方法であるのに対し、ナラティヴ・セラピーは関係性に焦点を当てた「気付きー語り直し」という対話ベースの方法です。

実際にはこんな単純に行かないよ!という声が聞こえてきそうです。でも人と人との関係性の力というのは思った以上に大きく、時に動かしがたい現実として自分を縛りつけてしまうということは、往々にしてよくあるように思えます。

自分とは一体何なのか、と感じた時、一度この「気付きー語り直し」という対話ベースの方法を試してみてはいかがでしょうか。

もし環境が変えられなかったとしても、自分の認識が変わることで思わぬ変化が起こるかもしれません。

 

 

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書くことも読むことも対話だ

今日の材料:ブログ、書くこと、読むこと、対話、継続

ブログを書くようになってから、本当にいろいろな気づきがあります。

例えばこの記事で書いたように、プロフィール一つをとっても読んでくださる方からの反応で修正しました。日々のブログで書くことにも、自分の頭の中だけでは起こせない変化が生まれているように思えます。

私はこれまで、書くことはモノローグ(独り言)と考えていたところがありました。本来なら文章を書く際に読者のことを想定するのは当たり前ですが、それを体感したのはブログを書き始めてからかもしれません。

これは読む側になっても同じです。これまでは知りたい情報を収集する目的で、ネット記事を検索したり、本を読んだりしていました。でも、ブログを始めると同時に読者としてブロガーさんとつながるようになり、無機質な情報としてではなく生きたストーリーとして文章に触れるようになりました。そのおかげでどんな文章でも、より自分の視点を持って読めるようになりました。

書くことも読むことも対話(ダイアログ)ですね

例えば実際にコメントを頂いたり、自分もコメントを書いたり、こういうやりとりは目に見えて対話です。それが一番明確なコミュニケーションですが、必ずしもそれだけではありません。

アクセス数やアクセス元の変化、スターやブックマーク、フェイスブックの反応などだけでも、大きな意味のあるフィードバックです。良い方向、好意的なものに限らず、どんなフィードバックでも自分の書いたものについて考える良いきっかけになるんです。

私自身はあまりブログ運営のことを記事にはしていないのですが、アクセス数やアクセス元など、日々チェックしています。ブログの書き方やアクセス報告をされるブロガーさんの記事はとても参考になりますし、SEO対策その他の工夫なども読んでいます。(記事には上手く反映できていませんが・笑)

みなさん、いろいろ工夫しながらブログを書かれていますよね。「どうやったらアクセスが増やせるか」という記事はやはりアクセスが多いようです。もちろん、その方法も一つではないのでしょうが、ブログは自分自身を振り返るだけでなく他の人との対話の機会ももらえる、本当に素敵なツールです。

ちなみにこの記事では、「対話は続けていくことにこそ意味がある」と書きました。そしてその目的は分かり合うことだけではなく、新しい関係性を築いていくことだ、ということも。

ブログの目標として「100記事」と頻繁に書かれており、それがドメインパワーが上げ、結果として検索上位となるということがよく説明されています。もちろんそこまで単純化出来るものではないかもしれませんが、継続することが力になるのなら、すごく良く出来たシステムだと感じます。

私にはまだまだ100記事は遠いですが、そのプロセスにこそ意味があると信じて、これからも頑張ります。

私のブログでは、通常あまり読者の方々にメッセージを書いておらず恐縮ですが、今日はこの場を借りてお礼を申し上げます。

いつもありがとうございます!

 

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「私が誰か」は自分だけでは決められない

今日の材料:プロフィール、ブログ、自分、関係性、読者の方々

「働く」と「生きる」を楽しむ方法を考えることがメインテーマのこのブログ、その核心は「自分探し」にあります。

でも、そもそも「自分」って何なんでしょう。

ぱっと思いつくのは、自己紹介。職場や学校、その他さまざまな会合で初顔合わせの時には、必ず「私が誰か」ということを考えて表現します。

そうそう、ブロガーのみなさんは、たいていトップページにプロフィールを表示されていますよね。

でも実は私、ブログ開始当初はこのプロフィールを書いていませんでした。

ブログを読んでくださる方は不特定多数。その方たちにとって、私って誰なんだろう、と悩みまして。年齢や性別、社会的ステータスは書けるけど、それ以外に他の人と違う自分を表現するとしたら、何を基準にすればいいのか―。

同じように悩んだ方もいるかもしれません。

結局、「私が誰か」ということは、自分だけで決められるものではなく、相手との関係性の中で、初めて決まるものだと思うのです。

でも、逆の立場から考えれば、筆者が誰だかわからないブログは読みにくいですよね。ある日、「書いている人がどんな人か、見えるところに書いた方がいい」とアドバイスをもらい、悩んだ挙句、今のようなプロフィールにしました。

私はまだまだ駆け出しブロガーですが、長くブログを書き続けている方たちは、読者の方々の反応やその交流を経て、プロフィールを加筆したり修正したりしているのではないかと想像します。

「相手が自分をどう見ているか」ということも、自分自身を形成することに深く関わっているからです。読者とのコミュニケーションが進めば進むほど、書く人が表現する自分自身も変わっていくのは自然なことです。

「私が誰か」を決めているのは自分一人ではない―。それなら、私たちは他人に流されて生きなければいけないのでしょうか。

決してそうではありません。

むしろ、そのことに気付くことが「自分探し」の第一歩だと思います。

自分自身に真摯に向き合う、ということは、自分の心の中を必死に覗こうとすることではなく、他の人との関わりの中で自分が何を感じ、どう行動してきたかを見つめ直すことではないでしょうか。

たとえば自伝を書いてみるのはいかがでしょう。そこで過去を振り返ったときに思い出される日常の出来事や、ネガティブな経験。ある関係性の中での自分の立ち位置を振り返ってみることは、「自分探し」をきっと豊かにしてくれるはずです。

そして自分のストーリーは常に進行中です。自伝はどんどん更新して行きましょう。

いろいろなブロガーさんのストーリーを読ませていただいていると、日々の変化がとても面白いです。ブログを始めて本当に良かったと改めて思っています。

ところでこの記事は15回目の投稿なのですが、実は既に何度か自分のプロフィールを書き換えています。

みなさんに、いろいろな気付きを与えて頂いています。

 

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対話の目的は、分かり合うことじゃない

今日の材料:対話、対話力、関係性の構築

前回の記事で、人間関係の常識としての「必ず分かり合えなければならない」ということを、問い直す必要があると書きました。

むしろ「そもそも分かり合えない」ことを前提とした方が、よほど現実的のような気がします。

では対話とは、何なのでしょう。

「対話が大事だ」ということは最近では頻繁に耳にするようになりました。効果的な対話の方法や対話力を高めるスキルなど、「分かり合うこと」を指南する情報があちこちに溢れています。

もし「分かり合う」ことが目的なら、分かり合えなければ対話は失敗、また相手にわかってもらえなければ、対話力が低いということになります。

本当にそうでしょうか。

この記事でも書きましたが、都度の結果は通過点でしかありません。それと同じように対話をする上で「分かり合える」かどうかは、一つの通過点でしかないと私には思えるのです。

対話は単なる方法ではなく、参加する人たちの納得や、互いの信頼関係を反映するプロセスだからです。

もし対話力というものがあるのなら、それはその場に参加する一人ひとりが自分自身にしっかり向き合い、互いに本音を話せる信頼関係だといえるでしょう。

それは個人ではなく、関係性の力です。

個人のスキルや能力だけでは説明できない、人間関係の在り方そのものなのです。

だからこそ、どんなに真摯な態度で話してたり聞いたりしても、変えられないことだっていくらでもあります。

「それなら初めから対話なんてしない方がいい」と思いますか。

いえ、この関係性を構築するのも、やはり対話なのです。

一人ひとりが都度の結果に惑わされず、自分自身とその関係性に向き合って対話を重ねていくこと-それを時間をかけて辛抱強く続けていくことで初めて、この関係性の土壌を築くことができるのではないでしょうか。

「分かり合うこと」ではなく、継続することそのものに意義を見出すだけでも、対話への意味づけは大きく変わってくるはずです。

そして先ほどの記事では、このようにも書きました。

コツコツと継続し、そのプロセスで自分に起きた変化にも向き合えば、例え最初のゴールとは違っても、納得のいく成果となるはず、と。

どんなに対話を重ねても、関係性を築けない、もしくは変えられない時は、諦めてもいいし、逃げてもいいと私は思います。

でも、対話を続けたことが思わぬ別の関係性を築くこともある。

それもまた対話の力であり、人生の不思議です。

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